広島カープと競馬日記 -3ページ目

引越し

徐々に引越しを始めています。



まずは使っていないものから・・・。


昔のアルバム、冬服、非常食、などなど。



少しずつ、進んでいます。


未来に。

きおく

昨日の「news zero」見ていたら、3月11日の津波の映像流れていましたね。


あれは、宮城か、岩手の映像だったと思います。



あの日の記憶が、だんだん薄れていく中、よみがえってくる記憶がありました。




テレビの映像の中で、雪が降っていました。


私も、家に帰るときに、雪が降っていました。



記憶って、だんだん薄れていくものですね。



こうやって、少しずつ、忘れていくんですね。




3月11日 14時46分のラジオ福島の様子




音声のみですが、当時の様子です。

2分40秒後に、地震が始まります。



私達家族は、テレビよりラジオの方をよく聞いています。

この地震以降、ラジオ福島の方々は、1ヶ月以上の間、24時間、ずっと私達福島県民に情報を送り続けてくれました。

この男性のアナウンサーは、深野健司アナウンサーで、子供が2人います。
この深野アナも、本当は家族がどうなっているのか、不安だったはずです。帰りたかったと思います。電話して、安否を確認したかったはずです。

それでも、こうして、私達に情報を送り続けてくれた。

感謝です。


途中で出てくる女性のアナウンサーは、菅原美智子アナウンサー。
ベテランのアナウンサーです。

地獄でした。3月11日。(4)

記憶が薄れないように、、記憶が薄れても、思い出せるように、、、。


これは単なる、私だけの日記です。




3月11日のその後。


私と母は、玄関に立ちつくす。


その後も余震は続いている。


私の家では、テレビより、ラジオをよく聴いている。


ラジオでは、

「大津波警報が出ています。海沿いの方は、早く高台に避難してください。絶対に海岸付近には近づかないでください。」

と言う、深野健司アナウンサーの声が響いていた。


そこで初めて、今回の地震が、震度6強だったことを知る。


私「お母さん、地震のとき、何してたの?」

母「アイロンがけ終わって、、、次、何しようとしてたのかなぁ。」



もう、覚えていないらしい。


私が帰ってきてから10分くらい過ぎてから、父親帰宅。


父「玄関開かねーぞー!」(玄関、開かないよ)

私「お父さん!お帰りなさい!!!道路陥没してなかった??」


父「それより、玄関!!」


我が家は、玄関が2個ある。



私が入ってきた玄関は、2階の玄関。

父が入ってきた玄関は、1階の玄関。



地震で家がゆがんでしまって、あちこち戸が開かなくなったり、開きすぎて、倒れる戸もある。



父は、母親の電話で、すぐに帰ってきたと言う。

私の父は、お昼ご飯は、家で食べて、また仕事に行く。と言った生活をしている。


この日は、家を出た5分後位に、この地震が起こったらしい。



道路が陥没してたので、遠回りをして、家に帰ってきた。



14時46分。父親の携帯にも、緊急地震速報が来て、車を路肩に寄せる。

だんだん揺れがひどくなってきて、縦揺れが続いたところで、母親から電話が来たという。


「早く帰ってきて!」


母親の電話は、それだけだった。それだけで、電話が途切れてしまったと言う。



父は、今来た道を戻ろうとしたが、道路が陥没していて、渋滞。裏道をゆっくり走りながら帰ってきた。らしい。

罹災証明

昨日、市役所から罹災証明が来ました。


我が家は、「全壊」だそうです。。



半壊くらいかなぁ、なんて思っていたのですが、全壊でした。



こうやって現実を突きつけられると、怖いですね。


まだ、最大余震が来ていないだけに、怖いです。



今月も「11日」が来ます。



生きている心地しません