少子化という日本の問題は、私の暮らす町でも人事ではない。
6年前に、子供が一人も産まれないという年があった。
だから、来年の4月に入学する1年生は一人もいない。
行政のサポートは、長男の時から比べると良くはなっている。
けれど、子供を産んで働く環境は、
子育てサークルのママ友たちに聞く限りでは、
あまり変わっていないように感じた。
縁あって4人の子供に恵まれた私だが、
働きながら子供を育てる間に、いろいろな事があった。
長男を産んでしばらくして、父の工務店が倒産した。
生活のために、父はタクシー運転手になり、
母はパートで調理師として働きに出るようになった。
その頃、まだ会社勤めだった私だが、
母が子供を見てくれるからと、産後6ヶ月で復職していた。
けれど、朝から晩までパートに出る母に、子供の世話を頼めなくなった。
近所の公立保育所には空きがなく、
空いていたとしても、公立保育所の開いている時間が、
民間企業で働く会社員の勤務時間にあわなかった。
仕方なく、勤務時間に合うけれど、
保育料の高い民間の保育所に入れることになった。
父の会社は、事務所も工場も人手に渡り、実家は競売にかけられた。
父の建てた、私達姉妹の実家がいつか人手に渡る。
そして、両親と私たち家族の住むところがいつかなくなる。
形としてあるのに、他人のモノになってしまうという哀しさ。
先の見えない不安感。足元が揺らぐ感じ。
それでも、仕事をしないと生活はしていけない。
長男を産んだ年は、阪神大震災がおきた年。
神戸には、私たちよりもっと苦しい人たちが大勢いる。
幸い、身体は丈夫だ。家族も生きている。可愛い子供もいる。
働こう。頑張ろう。
そう主人と励ましあっていた。
長男は、保育所に通うようになってから、途端に病気がちになった。
1ヶ月のうち、1週間しか通わなかった時があった。
肺炎をおこして10日間、入院したときもあった。
その間、会社を休むから、当然お給料は少なくなる。
それでも、保育料はしっかり払わされた。
経済的にも苦しくなるが、会社を休むと仕事が遅れる。
私の部署は上司と私だけ。
家具のデザインを考え、施工図面を起こし、工場に出す。
職人と打ち合わせをして、制作してもらう。
住宅、店舗、公共施設、現場はひっきりなしで、
上司一人ではとてもこなせる量ではなかったし、
何より上司に対して悪く、後ろめたい気持ちになった。
ある朝、長男の手と額が熱かった。
それほど高くはないが熱がある。
伸ばしに伸ばしてもらった図面の締切は今日だ。
長男をベビーキャリアに載せ、暖かくしてやり、そのまま会社に行った。
到着してすぐ上司に事情を話し、
社内で子供の世話をしながら仕事をさせて欲しいと頼んだ。
驚かれたが、仕事の事情も家庭の事情もお互いよく知っている。
快くとは言わないが、許してくれた。
幸い、長男の熱はあまり上がらず、機嫌良くキャリアの中にいてくれた。
ひどくなれば、すぐに病院に行こうと思っていたが
水分補給をしっかりして、暖かくしてやり、
ぐずれば抱っこしながらパソコンに向かった。
途中、何度も工場の職人さん達が、長男の様子を見に来てくれた。
工場で、仲の良かったおばちゃんも、あやしに来てくれた。
社長も見に来られたが、説明すると何も言われなかった。
図面は間に合い、工場に出すことが出来た。
この後、長男が熱を出したとき、
まずは病院に連れて行き、様子を見てひどくないようなら、
上司の許しを得てから、子供を連れて会社に行き、子守をしながら仕事をした。
会社で長男の面倒を見るようになってからは、病気が長引くことが無くなった。
子供のために、仕事で上司に迷惑をかけるという後ろめたさも軽くなった。
部下の子供を、会社で保育する許可を出すことは
上司としては、苦渋の決断だっただろうし、泣いたときは煩かったと思う。
けれど、一切の批難もなく私に任せてくれた。
子持ちで働く自分を受け入れてくれた経験が、
独立して、仕事をしながらでも、子供をみていける自信となった。
そして、独立して自分で仕事を始めた時、
一番に喜んでくれたのは、この時の上司だった。
お金の不安、家の不安、仕事で考えること、いっぱいあった。
何のために働いているんだろうと疑問が浮かんだ時もあった。
でも、やるしかなかった。
働きながら子供を育てる立場は、自分で確保するしかなかった。
そんな自分を受け入れてくれる環境があった。
行政のサポートは良くなっている。
けれど、働く親を受け入れる場は、意識があって作るものだ。
いつか、美食住の古家を作ったときに
そこで働くスタッフたちが、
子供を育てながらイキイキと働ける環境を作る。
それが私の夢となっている。