前回
法然は、稲飯命の末裔であり、さらにその父、鵜草葺不合命、玉依姫の末裔。
鵜草葺不合命誕生の伝説と神社、鵜ノ羽大明神は屋島の麓。
その大明神が見つめるのは、桃太郎の鬼退治伝説の鬼ヶ島であり、玉依姫を表す「女木島」。
屋島といえば、浄瑠璃「義経千本桜」原作で義経さんは、平家が滅んだのは屋島の合戦であるとし、安徳天皇や二位の尼も入水したのだと「院の御所」で物語っている。
藤原北家ともいえる興福寺が、〈南無阿弥陀仏〉と念仏を唱える専修念仏が一門に偏執し他宗を軽んずる点を非難し、法然らの処罰を朝廷に訴えた「承元の法難」。
配流になった法然の移動は、土佐国から変更され讃岐国→摂津国
法然と摂津は、西国三十三所観音巡礼と配流の法然がつながり、法然は、天津久米を思わせる「久米」の地で生れ、鵜草葺不合命、玉依姫の子稲飯命の後裔であり、稲飯命祭られる飯盛山である讃岐の飯野山へつながった。
飯盛山の栄螺堂は、会津の正宗寺の住職・郁堂の考案で建立。
「正宗寺」つながりで、柿本人麻呂さんの言葉「玉藻よし讃岐の国は 国柄か・・・神の御面と継ぎ来る・・・」を信じて讃岐内を安易に探検してみれば、円光大師法然御遺跡四十八所の番外札所「慧日山正宗寺」をみつけ、法然、久米、稲飯命、飯野山(飯盛山)、さらに鵜草葺不合命、玉依姫がつながった!
今回は、
稲飯命について『紀』には「鋤持神(さいもちのかみ)」とあるが、関連して『記』の神話「山幸彦と海幸彦」でも「佐比持神(さいもちのかみ)」とあり、これらは鰐(わに)の別称とされるとのこと。
『記』の神話では、山幸彦(火遠理命)は海神宮から葦原中国に送ってくれた一尋和邇(一尋鰐)に小刀をつけて帰している。
「さい」とは刀剣を指すとも考えられ、鰐の歯の鋭い様に由来するとされる。
静御前は、長尾寺と庵の行き来で、意図して和邇賀波神社で祈ることができる位置に庵の場所を決めたのではないかと妄想
ここに天皇が、その黒日賣を恋い、皇后をあざむき「淡路島を見ようとおもう」とおっしゃり幸行する時、おわします淡路島、遥に望み見て歌にして話された。「一面に照り光る難破の崎よ、そこに立って我が国を見ると、あわ島、淤能碁呂島、檳榔(あじまさ、ビロウ)島も見える。裂けたような島も見える。」なので、その島を伝って吉備國に幸行できる。
第45代聖武天皇が、734年3月に難波の宮に行幸された時の歌で、随行した第47代淳仁天皇の兄・船王(ふなのおおきみ)が詠んだ、「眉(まゆ)のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕(こ)ぐ舟 泊しらずも」の眉のように見える山は、この難破津(さぬき市津田湾)の西にある山、北山と妄想。