イの国探検隊ファンの皆様こんにちは
下記の鍋倉さんの記事「車田神事」
不思議な神事で興味深いので
リンクさせていただきます。(今回の記事を書くきっかけです)
そこで、
四国の車田神事を調べようとしたら
徳島県に車田の地名がありました。
でも、それだけ。
地名に関係したのか、徳島県の岐神信仰(ふなとがみしんこう)
なることが、出てきた。
車田の地名は、かすりましたが、今のところ車田神事とは関係が不明です。
その時がくれば、見せていたけると信じたい。
関係していそうなもやもやがきえません。でも探検を続けたい。
よって、道草を食べさせていただきます。道草のみになるかも
大半、近藤直也さんの調査文献の記事から勝手ながら気になる部分だけ取り上げて私の妄想をはさんでいます。悪しからずご了承ください。
「徳島県下における岐神信仰に関する言説」
岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。
別名は、
久那土神、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、久那度神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀。
日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐとされる神。また、久那土は交合・婚姻を意味するものという説もある。
道祖神の原型の1つとされる。
読みをふなと、ふなど -のかみともされる。
『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。
これは『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。
「くるな」の意味 と「立てた船戸」?!
神社の境内を示す「立石」は船戸か?!
意味から転じた読みは多いとのこと。巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)、峠の神、みちのかみとも言う。さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)、
さらに幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある。
『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は『日本書紀』などではサルタヒコと同神。『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。
なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」を転じて神道の猿田彦神とも習合した。
とある。
「これ以上は来るな」の意味の岐神と、庚申信仰の「青面金剛」がここで、繋がった。
庚申さん(青面金剛)=立入禁止🚧
の意味があるとすれば、どこに立入禁止?
著者の近藤氏は、「ふなと神は(徳島県)全県的に分布し、その信仰圏は広く、なかんずく鮎喰川上流の神山町に密集しているのはなぜだろう。」 究明はこれからの課題だ」とされている。
つまり、徳島県では現在の神山町がそれにあたることになる。
車田が、一つだけ地名として出てきた。
那賀郡羽ノ浦町古毛車田の岐神は、
子供が12人いる足の神様といわれ。供え物をしてもなかなか母親であるおふなたさんの口に入らないので、子ども、(家の)と一緒に供え物をしてはいけないという。
やや意味が分からんが、
つまり、岐神へのお供え物は、その子の神さま12柱とは、分けなければならないとのこと。
車田の地名が車田神事と関係あるとするなら、「1人で車田神事を仕舞う」ことと関係あるんじゃないかと、心の隅で妄想しときます。
12が出てきた。
そして、全13柱
?! 13
これは、日ユ同祖論的な展開だ。後ろ髪ひかれるが、置いといて。
治安が安定してくる平安後期以降は、道祖神は道標(みちしるべ)としての役割を持つようになる。仏教の説く六道輪廻の概念から生じた末法思想を背景に、六道に迷った衆生を救う地蔵菩薩信仰が民間で盛んとなり六地蔵が置かれるようにもなった。
黄泉国訪問の段で死の恐怖の発見となり、次であの世とこの世の境界に立って邪霊の侵入を防ぐ岐神が杖から化生し、キ・ミ神の互いの言挙げによって一日に五百人ずつ人口が増えるという創世神話の完結を導くのであった。この辺のダイナミズムをしっかり踏まえておかないと、岐神が持つ本質を見失ってしまうのである。岐神は、単なる邪霊防禦の神ではなく、創世神話の根拠に密接に活連動する重大な意味を持つ神 「くなとのさへのかみ」なのであった。
来名戸祖神が、九州の北半分(五四例)や中部関東地方(八一例)で近親相姦伝承を伴いながら現存する事実を考慮すれば、また南西諸島(六二例)で近親相姦を伴った創世説話が分布する事実を考慮すれば、神話の時代だけに留まらず現在進形で今なお活き続けている事がよく理解できよう。
おまけだが、玉を祭ること
写真の説明があり、写る社の内部の御神体の玉石の数々。多くは海岸部の丸い石を選んで勧請 したとのこと。
「子授け」一例は大字鬼籠野(おろの)の字日浦地区での 伝承であるが、岐神が子供12人の子沢山であるため、子宝に恵まれない人は丁重にこれを祀り実際に子宝を授かっていた。「子供の守り神」だけでなく、より根源的に岐神は、「子授け」の段階から深く関与していたのである。
一例では「子供が三歳になるまで祀り、以後まつらない」と言うが、これは の「子供の守り神」と密接に連動したものである。即ち、七五三の祝いに象徴される如く、三歳は通過儀礼上大きな一つの関門であった。
しかも、「これより先は立ち入り禁止!」の結界ともいえる岐神
はい、「限定品」に弱い私は一人盛り上がってますが、探検が続くかは神のみぞ知る!?
この辺で、さようなら
ではまた。