絵のサークルで以前、日本画のカルチャーセンターに通っている人がいて、
その人に日本画の話をあれこれ聞いた時、上村松園の名前が出た。なんっ
たって上村松園が一番。根性が違う、ということだった。俺は日本画について
全く詳しくないが、今でもナンバー1の人らしい。「序の舞」という作品が有名で
宮尾登美子の同名小説の装丁になっていた。
画集をメルカリで二冊買って、見たがなるほど素晴らしい。山種美術館で本物
も観たが、根性が違うという表現がぴったりである。
でまあ、上村松園に随筆があるというので、読んでみた。鏑木清方が随筆として
主題が絵に限られていないのに反して、青眉抄は絵の創作に関しての事と、創作の揺
籃となった母親への思慕が語られている。文章に関しては鏑木清方の方が上か。
画集や文庫本の松園の年譜を簡単にまとめてみよう。
明治8年(1875年) 京都に生まれる。父 上村太兵衛 母 仲子 姉 こま
本名 津禰 父親は松園が生まれる前に逝去。
母親は茶商を営み、姉妹二人を育てる。五歳の頃より絵に
親しむ。
明治21年(1888年) 13歳 京都府画学校入学。鈴木松年の指導を受ける。
翌年、京都府画学校を退職した鈴木松年の私塾に入塾。
明治23年(1890年) 15歳 第三回内国勧業博覧会に「四季美人図」出展。一等
褒状受賞。来日中の英国皇太子が「四季美人図」を買い付ける。
四季美人図
この時から雅号に松園を用いる。
明治26年(1893年) 18歳 絵の技術を拡げるため、松年の許しを得て、幸野楳嶺、のちに
竹内棲鳳に教えを請う。
明治35年(1902年) 27歳 一男 信太郎生まれる。父親は鈴木松年と言われている。
信太郎は後の日本画家 上村松篁、孫も日本画家
明治36年 (1903年) 28歳 母は茶商を辞め、松園が生活の軸になる。
※上村松園は鈴木松年の子を出産したくらいで、生活に特段の事件はない。ずっと画室に籠り
生涯に渡り絵に没頭した。年譜を書くのも面倒なので、あと少しの事項だけ。
大正3年(1914年) 39歳 家を新築、転居。画室を」「棲霞軒」と称する。
昭和9年(1934年 59歳 母仲子死去。
昭和11年81936年) 「序の舞」 政府買い上げ。
昭和18年(1943年)68歳 「青眉抄」出版。
昭和23年(1948年) 73歳 女性初の文化勲章受章。
昭和24年(1949年) 74歳 すい臓がんにより他界。絶筆「初夏の夕」
「初夏の夕」
上述のように「青眉抄」は松園が68歳の時に、書かれた。
青眉というのは嫁入りして子供が出来ると、必ず眉をそりおとしてそうしたもの
である。
(略)
結婚して子供が出来ると青眉になるなどは、如何にも日本的で奥ゆかしく聖なる
眉と呼びたいものである。
いつの頃からかこの習慣が消え失せて、今では祇園とかそう言った世界のお内儀
さんにときどき見受けることがあるが、若いひとの青眉はほとんど見られない。まし
て一般の世界にこの青眉の美をほとんど見出すことはできない。
青眉は子供が出来て母になったしるしにそうするーーーーーーーー言い換えれば母の
眉とも称うべきものでめでたい眉なのである。
「眉の記」
昔、時代劇で侍のお内儀などが、眉を剃って、歯をお歯黒にしていたのを見たことが
ある。個人的にはあんまり好きではない。結婚して夫の所有物になっているという証の
為という気もする。時代劇で青眉があったことは江戸時代からの習慣であったのだろう。
松園の母も、この習俗に親しんでいた。
私は青眉を想うたび母の眉を想いだすのである。
母の眉は人一倍あおあおとし瑞々しかった。母は毎日のように剃刀をあてて眉の手
いれをしていた。いつまでもその青さと光沢を失うまいとして、眉を大切にしていた母の
ある日の姿は今でも目をつぶれば瞼の裏に浮かんでくる。
「眉の記」
松園の母は気丈な人で、寡婦となっても、女手一つで二人の姉妹を育てあげた。当時を
考えれば、シングルマザーで生活を自立させ子供を育てるのは並大抵のことではなく、商家
の家に生まれ、絵に没頭できたのは母親のお蔭だと松園は終生、感謝している。
青眉
松園の絵を鑑賞すると、その凛とした空気に感嘆させられ、自分の性分が恥ずかしく
なる。上村松園の写真を見ると、裂帛の気合が顔にでていて、クィーン・オブ・怖いオバサン
である。スタンダードジャズのように古典的な江戸風俗の女性を描いた。決して今様の風俗
の中に女性を置かなかった。そして今、気づいたんだが、女性しか描かなかった。日本画で
はままある事なのか、俺には良く分からないが。
上村松園の絵は西洋的な写実からは距離を置いている。うりざね型の顔、長い鼻、細くて
切れ長の目、小さなおちょぼ口。現実の世界ではありえないが、絵の中では絶妙なバランス
が取れている。
晩年になっても松園の絵は、凛として衰え知らずで、歳をとればとるほど巧くなっていったエル
ビン・ジョーンズのドラミングのようだ。絶筆の「初夏の夕」も衰えを知らず、感性が若々しい。
どんな巨匠でも年を経れば、力が落ちてくるが、その前に人生を終えてしまったのは、流石
というべきだろう。
松園のアトリエは師の一人、竹内栖鳳に棲霞軒と名付けられた。これは人の交際もなく、アト
リエに籠り切りで絵に没頭している松園の生活を仙人が霞を食べ、霞を衣にしている故事に
喩えた命名である。春夏秋冬を問わず、毎日、画室に籠り絵の研鑽に生涯を捧げたのだが、
自分の絵に対する考えをこう述べている。
その絵を見ていると邪念の起こらない、またよこしまな心を持っている人でも、その絵に
感化されて邪念が清められる・・・・・・・・といった絵こそ私の願うところのものである。
芸術を持って人を済度する。
これくらいの自負を画家は持つべきである。
よい人間でなければよい芸術は生まれない。
これは絵でも文学でも、その他の芸術家全体に言える言葉である。
よい芸術を生んでいる芸術家に、悪い人間は古来一人もいない。
みなそれぞれ人格の高い人ばかりである。
真・善・美の極致に達した本格的な美人画を描きたい。
「棲霞軒雑記」