大槻ケンヂが江戸川乱歩はキャツチコピーの天才だと言ったが、蓋しそのとお
りであると思う。「鏡地獄」「蜘蛛男」「パノラマ島奇談」「人間椅子」「恐怖王」「陰獣」
そして「盲獣」等々。みんな乱歩の造語だが、これだけでおどろおどろしく掴みは
OK。この言語感覚は実に卓越した才能だが、話を作る能力には著しくかけてい
て、出だしの場面だけ思いついて、後は行き当たりばったりで休載したり、未完
になったり、辻褄合わせの結末でお茶をにごしているものが多い。
「盲獣」(昭和6年・1931年 乱歩37歳)の執筆時には「江戸川乱歩全集」全十三巻
が刊行され、なんと二十万部を売り上げた一端の流行作家だった。
何回も書くけれど、乱歩は自分が目指したトリック主体の本格的な探偵小説や幻想
小説の才能は、ごく初期で潰えてしまい、後は自分の資質の変態的性癖を糧として
何かと言うと、女をさらって凌辱して、殺してバラバラにして手足やら首を愉快犯の
必須行為として衆人に晒すというパターンの小説を書いた。
乱歩の少年物は脱力するほどバカバカしい筋立てだが、大人物の小説もエログロ
が横溢してるだけで小説の結構のお粗末さは変わらない。だが、そのバカバカしさ
が限度を超えたグロティスクな描写に救いを与え、ただの作り話だという安堵感が
加味され大衆的な人気をえたのだろう。そして、ちゃんとした教養に裏付けられた
文章が江戸川乱歩をして息の長い読み継がれる作家にしたのは間違いない。
当時原稿を書いたきり、一度も読み返していなかったが、今度、校訂のために初めて
通読して驚いた。ひどい変態ものである。私の作がエログロといわれ、探偵小説を毒する
ものと非難されたのは、こういう作があるからだと思う。この作は全集に入れたくなかったが
しかし、そんなことをいって、気に入らぬ作を省いていたら、半分以上なくなってしまい、全集
の意味を失うことになる。作者自身が校訂などをやると、こういうときに困るのである。だか
ら、目をつむってのせることにしたが、終わりの方の『鎌倉ハム大安売り』という章だけは、
作者の私が吐き気を催すほどなので、この一章、原稿用紙にして八、九枚は削らせて
もらって、辻褄の合うように前後の文章を直した。ご了承下さい。
昭和36年十一月 、桃源社版江戸川乱歩全集 あとがき
確かに作者が読み返して気持ち悪くなるほどのひどい内容だし、これ書いたというの
もかなり恥ずかしい。読むほうはいいけど、女房、子供もいたのになんで、こんなもの公に
したのかと思うが、こういうもの以外に書けなかったのだからしょうがない。
僕は「盲獣」を確か、高校生の頃に講談社で出した全集で読んだ記憶がある。気持ち
悪くなったという記憶もないし、話の細部を覚えているわけでもないが、殺人狂の変態の
盲人が、乳房やら尻、腹、太腿などを大きなオブジェにして幾つも配置してある地下室の
場面は強烈で記憶に残っている。
気持ち悪かったのはサドの「悪徳の栄え」で、読んだ後、気持ち悪くなって食欲がなくなった。ロ
ラン・バルトによるとサドの小説は被虐者の言葉で書かれているそうで、被虐の痛みが伝わりく
るし、SMに了承というプロレス関係はなく、全部マジであるのが耐えられないが、「盲獣」は大きな
枠でSM関係に了承があるのが、まだ救われる。
盲人を変態の殺人犯としているため、「乱歩おじさん」の著者、松村達夫は「盲獣」は江戸川乱歩
による「春琴抄」だと言っているが、そんなに大したものではない。おそらく乱歩は当時、街
で見かける黒メガネをかけて白杖をついて歩いている按摩の不気味さから「盲獣」を発想
したのだろう。
話の内容はまあ、乱歩の小説の定番、盲目の盲獣(名前さえつけられていない)が自分の
好みの女を攫って、凌辱して情痴の果てに殺して死体をバラバラにして晒しものにするという
行為を繰り返すのだが、バージョンアップして殺人鬼が盲目なので女性をその触覚のみで愛す
る設定がより変態度がましている。
こりゃすごいと思ったのが、第一の犠牲者、浅草レヴューの踊り子が連れ込まれる地下室の
おぞましさである。
ふっくらとした、酔っぱらいの顔のように薄赤い乳房の形が、身内がむず痒くなるようなイボイボ
になって、かぞえきれぬほど、ビッシリ群がり集まっている有様は、なんともいえぬ不気味なもの
であった。しかもそれが、一つ一つ、人間の肉と同じあたたかみと、弾力をもっていて、触って
みると、ブルブル震えだすのだ。
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ある部分には、断末魔のもがきをもがく、大きな千の手首が、美しい花のように群がりひらいて
いた。ある部分には、さまざまの形に曲がりくねった、そして、その一つ一つがえもいえぬ媚態を
示した、数知れぬ腕の群れが、巨大な草叢のように集まっていた。また、ある部分には足首ばか
りが、このほか、肉体のあらゆる部分々々が、どんな名匠も企て及ばぬ巧みな構図で、それぞれ
の個性と嬌態を、発散していた。
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ふと気がつくと、蘭子が今踏んでいる床は、よく見ればこれはまた、実物の十倍ほどもある、巨大
な女の太腿であった。いやらしいほどふっくらした肉付、深い陰影、それに驚いたことには、産毛
の一本々々、毛穴の一つ一つまで、気味のわるいほど大きくこしらえてあるではないか。
書き写して気持ち悪くなってきたが、この盲獣の地下帝国は乱歩が小説のなかで作り上げたユー
トピアの中で一番出来がいい。小説として緊張感があるのは、ここら辺まで。後は何故か、誘拐された
女が盲獣を好きになり、情痴を尽くして最後は女は殺されてバラバラにされる。後はお約束の、切断さ
れた手足、生首が衆人に晒される。
二人目の犠牲者を見つけるために盲獣が銭湯の三助になる。自分の触覚に叶う素晴らしい肉体を
有する女性を探すためだが、この件で僕は思わず吹き出してしまった。いっくらなんでも、全盲の人間が
風呂場の三助できる訳ない。話が無茶苦茶であるが、こういうところにこの残虐小説の救いがあるのだ
ろう。雪だるまの中に手だったか足だったかを埋め込むというのも同様で全盲の人間ができる訳もない。
「盲獣」は犯罪を阻む探偵も犯人を追う警察も出てこない。ただ女を殺してバラバラにするという行為の
繰り返しになり小説の枠をはみ出した乱歩の変態性欲を満足させるだけの地下出版物の様相を呈する。
終わらせなくてはならないので無理やり盲獣が触覚芸術の極致の彫塑を作り上げて完結する。
見物人たちは、素人も、玄人も、その彫塑の前にたってあっけにとられた。
その裸美人は一体にして三つの顔、四本の手、三本の足をそなえていた。しかもその顔、その手足は
或るものは大きく、或るものは小さく、或るものは肥え、或るものは痩せ、全て不揃いでちぐはくに見えた。
調和とか均整とかういうものが美の要素であるとすれば、この作品は美とは正反対のものであるとしか
考えられなかった
乱れた髪の下に一つの首があった。その首の三方に三つの顔がついていた。つまりこの女人は、六つ
の目と三つの鼻、口を具えているのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・
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あの彫刻の一つの顔と、一本の腕と、一つの乳房は水木蘭子を、一つの顔と、一本の脚は真珠夫人を
二つの乳房と、一つのお尻と、腹部とは大内麗子を、ある部分は漁村の海女を、またある部分は読者の知ら
ぬ美しき被害者を、それぞれにモデルとして、その触感がそっくりそのまま再現されていたこと。
書き写していて気持ちが悪くなってくる。この小説は盲獣が奇態な彫塑を撫でさすりながら服毒自殺している
ところで終わる。
「探偵小説四十年」は仔細に乱歩の身辺のことや刊行された小説について、書かれているが「盲獣」が刊
行された昭和6年、翌年昭和7年の頁には「盲獣」について一切、書かれていないのでよっぽどいやだった
んだろうと察せられる。
江戸川乱歩のエログロには性的な描写に関しては抑制が効いている。これは当時の規制を勘案したとも
思えるが、少年愛者である乱歩はそれほど女性には性的な関心を持たなかったのではないか。グロは大好き
で死体や奇形が好み。サドがサディストにしてマゾヒスト、スカトロ趣味あり。マゾヒスト谷崎潤一郎はスカトロ
趣味として有名。三島由紀夫はホモにしてマゾヒスト。といった具合に変態は複合的なものであるようで、少
年愛者、江戸川乱歩が死体嗜好癖があってもおかしくない。
まあ、何の根拠もありませんが。
乱歩は晩年、パーキンソン病になって亡くなったが、「芋虫」やら「盲獣」を書けばこういう病気になる因果を
背負ってしまうのではないかと思う。
江戸川乱歩には不思議な力があり、光文社版の全集なら乱歩が嫌悪して削除した「鎌倉ハム大安売り」
の章を読めるそうで、正直、読んでみたい気がする。