回想の江戸川乱歩      小林信彦 | やるせない読書日記

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 本書は小林信彦の弟、小林泰彦との対談、エッセィ 回想の江戸川乱歩、小説 半巨人

 

の肖像の三篇からなる。江戸川乱歩は昭和32年・1957年、潰れかかているミステリー

 

雑誌「宝石」の責任編集を引き受ける。この時、乱歩63歳。逝去したのは昭和40年・1965

 

年、享年70歳だから晩年といえる。失業中の小林信彦は昭和38年、数奇な縁で江戸川乱歩

 

の謦咳に接することになる。

 

 そこまでの江戸川乱歩(1894年ー1965年)の文学活動をざっくりと辿ってみよう。

 

  大正十四年「新青年」の二月号から連続短編をのせはじめ、翌十五年も辛うじて小説を

 

 書きつづけたが、その年の終わりから連載をはじめた東西の朝日新聞の「一寸法師」に

 

 自己嫌悪を感じ、それが終わった昭和二年三月、筆を投じて無期休業を決意するまでの

 

 二年余り、今から考えると、これが私の作家としての最良の時期であった。虚名が拡がったり

 

 、収入が多くなったりしたのは、それより後のことだが、小説家として真剣に情熱を傾けたの

 

 はこの二年間であった。                    「探偵小説四十年 」江戸川乱歩

 

 大正14年・1925年は乱歩31歳。早稲田大学を22歳で卒業後、様々な職業に就職しては

 

退職を繰り返す、今でいうところのフリーター生活を送り、二十八歳で「二銭銅貨」を執筆。大正1

 

3年に30歳で新聞社を退職して作家専業を目指す。確かに、この二年間に乱歩の傑作が生まれた。

 

「D坂の殺人事件」「心理試験」「赤い部屋」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「湖畔亭事件」「闇に蠢く」

 

「火星の運河」「木馬は廻る」「鏡地獄」「踊る一寸法師」「パノラマ島奇談」などで、乱歩が売れるよう

 

なった「一寸法師」のような過度の猟奇性はなく、ストーリーの面白さで読者を十分に惹きつけて

 

いる。

 

 「一寸法師」以降は、ストーリーよりも、エログロ、残虐、猟奇が全面に出てきて、その頂点がやっち

 

まったな感が横溢している「芋虫」(昭和4年・1929年刊行)。エログロ(しかし、江戸川乱歩は確固とし

 

た品格のある文体を持っていた)が大衆にバカ受けして、昭和6年・1931年、乱歩37歳で刊行された

 

「江戸川乱歩全集」が20万部売れ乱歩は人気作家に。だが、乱歩は作家として自分の作品を嫌悪し、

 

休筆や失踪を繰り返す。

 

 昭和14年・1939年 乱歩45歳。「芋虫」が発禁となる。昭和12年・1937年 盧溝橋事件により日

 

中開戦、昭和13年、国家総動員法。昭和14年 国家総動員法。昭和16年 太平洋戦争開戦と時世

 

が戦争に傾き軍部が伸張している時に、傷痍軍人をモデルにしたエログロ小説は当局にとっては好まし

 

くなかった。左翼が「芋虫」を反戦思想として称揚したことも発禁になった一因。

 

 さらに昭和16年には乱歩の作品すべてが発禁になる。生活は困窮。

 

 時間が前後するが、乱歩は少年向けの読み物に手を染めることになるのが、昭和11年 1936年

 

 42歳の時である。

 

 どういう風の吹きまわしか、私は少年ものを書いてみる気になった。もともと、私の娯楽雑誌に書く

 

大人もの は、筋も子供っぽいし、文章もやさしいものが多かったから、少年倶楽部の編集者が、こ

 

人はきっと子供ものに向くだろうと狙いをつけたのかもしれない。(略)私のほうでも、どうせ大人の

 

雑誌に子供っぽいもの を書いているんだから、少年雑誌に書いたって同じことじゃないかという気に

 

なったのであろう。 

 

 出版社からの依頼も少なくなり生活のためもあった。翌年の昭和12年には「少年探偵団」を上梓。

 

戦後になって発禁が解けても、才能の枯渇により大人物の新作は発表されなかったが、1949年・昭和

 

24年 55歳で「少年」に「青銅の魔人」を執筆以降、1962年・昭和37年 68歳 「超人ニコラ」まで戦前

 

からあわせて三十作以上の少年物を書いている。

 

 怪人二十面相は日本中の子供たちを夢中にさせた。大人物の小説の行き詰まり、糧道を得るための

 

「少年探偵団」が当たって乱歩は作家として延命することになる。

 

  昭和二十年・1945年 51歳で乱歩は終戦を迎えた。発禁の処分は解け、乱歩の戦前の作品は再び

 

、広く大衆に読まれるようになり、推理小説全体も人気が出る。大家・江戸川乱歩には新作が期待され、

 

還暦を記念して「化人幻戯」を執筆するが、かってのキレはない。小説より推理小説研究家として力を発揮、

 

評論「幻影城」「続幻影城」などを上梓。探偵作家クラブ結成して会長に就任。自腹を切って100万円を賞

 

金の基金として供託、戸川乱歩賞を後進の育成のために設置。

 

 小林信彦(1932~)は昭和38年・1963年当時、26歳で失業中。小林信彦の「宝石」の内容につい

 

ての書が乱歩の目に触れ、月、五千円で「宝石」のアドバイザーとして拾われる。昭和32年に乱歩が

 

責任編集になっても「宝石」の業績は上がらず、新しい感覚を編集に取り入れる必要が乱歩にあった。

 

そのために雑誌の感想を投稿する無名の若者に目をつけたのだが、小林信彦の技量を見極めた、乱歩

 

の慧眼たるや並ではない。

 

 やがて、小林信彦は正規の編集者になり、「ヒチコック・マガジン」の編集を任されるまでになる。

 

 それでは印象に残っているところなど、挙げて感想でも。

 

 僕が小学校の高学年か中学生になった頃だが、江戸川乱歩は昼間でも真っ暗な土蔵に籠り、蝋燭

 

を灯して、女をバラバラにしてしまう血みどろ小説を書いているという話を聞いたことがあり、乱歩

 

は小柄の「せむし」のような男だと一般に思われていた。

 

 この本でもこの都市伝説と実際の乱歩との違いを述べている。この禍々しいがインパクトのある

 

風評の顛末について「探偵小説四十年」に書かれている。長くて書き写すのが大変だが以下の

 

とおりだ。

 

 乱歩は知人の報知新聞記者に目薬の宣伝のため、「名士の家庭訪問記」という広告記事を作りたい

 

と懇請され、自身も新聞社広告部に在籍経験もあり承諾した。記事は「報知新聞」昭和五年十一月二十

 

六日の六面最上段の記事。見出しは「死に絵と死の島、奇怪な装飾品に囲まれて、江戸川乱歩氏」。

 

 記者が入った書斎の中は、真昼間にかかわらず真っ暗、蝋燭が灯っているだけ。乱歩は太陽の光

 

を書斎に入れない、太陽光線の下では書くことが出来ない。真っ赤な電球をつけることもあると答える。

 

 「記者は余りの不気味さに、思わず全身が総毛だつのを覚えた。というのは、それまでは蝋燭の光に

 

 目がなれなかったために判らなかったのだが、その部屋は団十郎の死に絵だの、[乱註、この記者は

 

 何か血みどろのものと誤解している。死に絵というのは、役者が死んだとき、記念に出版される似顔

 

の錦絵のことで、別に、気味の悪いものではない]ベックリンの死の島だの、血みどろの生首だの、

 

 気の弱いものは気絶してしまいそうな怪奇に充ちた装飾品によって飾られていることを知ったからで

 

 ある」

 

   というような調子で、それから段々話が若い女のことになり、女は目の美しさが大切だ、目を美しく

 

 するには目薬スマイルを使うに限る、という私の意見で終わっている。 「探偵小説四十年」

 

  ようするに目薬の宣伝記事で、蝋燭やら気味の悪い装飾品は全部、嘘だとは乱歩の弁。

 

  今だったら訴訟ものだし、乱歩は随分と気分を害してしかも謝礼を受け取っていない。随分と人の

 

 いい人だが、この記事が昭和五年から僕が中学生の昭和三十年代半ばまでその風評が生き続けた。

 

 実際の乱歩は身長180センチ近くもあり、学者然とした常識人であったが、本人はいやだったろうが

 

この風評はネガティブに大衆の心に焼き付いた。  

 

 多くの少年が少年期に遭遇する乱歩体験を小林も経験している。

 

 小林は空襲も近いだろうというある日、貸本屋から薄汚れた乱歩の本を借りてくる。

 

   応接間のソファに寝転んでそれを読み始めた彼は、真黒い怪物が東京の各所に出没する発端で

 

 すでに作者の世界に引き込まれていた。それらの奇怪な兆候の一つとして、ある大学生の地に長く

 

 伸びた影が白い歯をみせて笑った、という一行を読んだときは背筋を這い上るような恐怖から思わず、

 

 明るい室内を見まわした。彼は人攫いや赤マントの噂に怯える年齢を過ぎていたが、周囲は戦いの

 

 成り行きに関する別種の恐怖にみちており、巨大なわが戦艦が実は海の底にいるらしいとか、一流

 

 レストランの裏のゴミ箱に猫の首がまとめて棄ててあったなどという風説と、物語のなかの黒い怪物

 

 の出現は、彼に見えないどこかにおいてつながっているかのようだった。 

 

  「半巨人の肖像」小林信彦

 

  やがて小林は疎開先で乱歩の大人向けの小説を読む機会を得る。疎開先で同級生の友人を得る

 

が彼は素封家の長男。夏休みの日盛りの午後、友人を訪れるが、留守。友人の姉が、蔵の中

 

にある父親の書斎で本を読んで帰りを待つことを勧められる。蔵書は洋書が大半

 

だがその中に氷川鬼道(「半巨人の肖像」では江戸川乱歩を氷川鬼道としている)の全集を見つける。

 

 金色のレザー表紙に黒い背文字のはいったそれらは、奥付によると彼の生まれる以前に刊行さ

 

れたものであった。

 

 「おまんも、氷川鬼道ば、よむかね…・」

 

やがて近在の村長の家に嫁入りするはずの友人の姉は、なにか淫らな感じすら漂う笑いをみせ

 

た。

 

 「えわね、中学一年だすけ」

 

 輻射熱は少ないが日向臭い淀んだ空気の中に置き去りにされた彼はそのまま乾ききった籐椅子に

 

身を委ねた。直ちに彼の前にはゴム人形のような裸女の群れと残忍な犯罪の世界がひらけ、最後は

 

打ち上げ花火とともに宙に四散した犯人の血と肉が裸女たちに降り注ぐのであった。

 

 今野は、このときほど充実した読書の経験をもったことがないという気が、はるか後までしていた。

 

性的な暗示に敏感な年ごろであったが、その意味で大きな衝撃をうけたのではない。ただ、はるか遠く

 

で、真紅、青、うす桃色といった色が動いており、彼は暗いトンネルの中から、それらがもつれ合うさ

 

まを眺めているような気がした。甘美というには猥雑さの混じったその感情は彼にとってまったく新しい

 

体験であった。いつの間にか入ってきた友人に声をかけられても、とっさに反応できぬほど彼は陶酔

 

していた。

 

 ちょっと大袈裟だが、素晴らしい文学体験ではないか。もっとも、多くの少年は一過性の病のように

 

乱歩に飽きて他の「ちゃんとした」小説に移っていくのだが。

 

 僕の場合、江戸川乱歩は最初、小学校の図書館で読んだ。驚くべきことに、「緑衣の鬼」やら「大暗室」

 

やらの大人向けの小説まで子供向けの江戸川乱歩全集に収録されていた。小説の題名は忘れてしま

 

ったが、若い女性をバラバラにして石膏で腕やら首を塗りこめて、晒すというとんでもない内容だった

 

と思う。小学校高学年で憶病な子供だったが、不思議とそのグロテスクに怯えることは無かった。子供

 

心にも、これは嘘だと思っていたし、そう思わせたのは端正な品格のある文章の力かもしれない。

 

  親に買ってもらって、読んだ「怪人二十面相」読んだも、最初は面白かったが、子供心にも馬鹿らしい

 

トリックに呆れたのを覚えている。その後、芥川龍之介やら夏目漱石やら「真っ当で健全な」小説を

 

読むようになり、乱歩は読まなくなった。

 

 次に江戸川乱歩に邂逅するのは、少しは知恵のついた高校生の頃で、講談社が横尾忠則など

 

を挿絵に起用し、三島由紀夫も編集委員に名を連ねた乱歩復権の全集で、澁澤龍彦も解説を書いて

 

いた。僕はまだ町にあった貸本屋で、その乱歩全集を読んだ。

 

 「屋根裏の散歩者」「パノラマ島奇談」「押絵と旅する男」「鏡地獄」「芋虫」等々は子供向けの

 

全集には収録されていなかったのでかなり夢中になったが、「パノラマ島奇談」が谷崎潤一郎

 

の「黄金の死」に似ていることに気づく知識もあったし、「芋虫」が反戦小説などではなく、行き過ぎた

 

グロテスク趣味の小説であることくらいは分かった。

 

 半分くらい全集を読んだところで流石に飽きてきた。何かっていうと、女が攫われて、殺されて

 

るだけだから飽きもくるというものだ。その後、吉本隆明やら埴谷雄高などを読むようになり、乱歩

 

とは二度目のサヨナラをしたわけだ。

 

 最近、エドガー・アラン・ポーを読み始め、その逆を辿り、江戸川乱歩ってなんだったっけと、また

 

読むようになった。

 

 もう一つ、「半巨人の肖像」で「探偵小説四十年」についてある卓見を提示している。「探偵小説

 

四十年」は原稿用紙でおよそ二千五百枚の主に大正十二年・1922年 29歳から昭和31年・1956

 

年・62歳までに渡る詳細な自伝である。収集癖のある乱歩は自分に関する新聞記事などを逐一スク

 

ラップしていて、それを資料にこのとんでもない自伝をものにした。巷間、出回っている評論、伝記は

 

ほとんど「探偵小説四十年」を一次資料としている。

 

 僕も読んだが、最初は美文で読ませるが、その詳細な記述に辟易した。

 

  自己に関する記録について鬼道が偏執的情熱をもっていたのは、まぎれもない事実である。だが、

 

 この一巻に溢れんばかりの記録群には、その価値自体とは別に、さらにほかの目的があるのでは

 

 ないかという気が今野にはしてならないのだった。すなわち、これらの夥しい記録群と解説とほどほど

 

 の<自慢と卑下>的感想の洪水によって、ここに記してあるより深く他人が立ち入り、穿鑿するのを

 

 拒否しようと著者は意図したのではないか。                 「半巨人の肖像」小林信彦

 

 

  さて、乱歩が公然とされるのを、怖れた秘密はどういう事なのだろう。

 

  たとえば、鬼道について伝説的にさえなっているhomosexualityであるが、ここにはそうした文

 

献の蒐集家としての一面しか書かれていない。そのような告白をしなければならぬことは必ずし

 

もないにせよ、かって、ジイドの「一粒の麦もし死なずば」に触発されて書かれ、中絶した告白的エッセィ

 

 をもつ鬼道だけに、その空白がならずにはいられないのだった。  「半巨人の肖像」小林信彦

 

 

 いま、コスプレというのがありますが、怪人二十面相というのは元祖コスプレイヤーですよね。

 

 「青銅の魔人」(1949年)とか「電人M」、あるいは黄金の豹にまで、たくさんのお金をかけて

 

 色々な人を使って、たかだか数人の子供たちを驚かせるために怪人二十面相は頑張っているの

 

 です。つまり、そんなことをしてまで明智小五郎や小林少年に遊んでもらいたかったんです。

 

                       (略)

 

 少し視点を変えると、そこには「同性愛」「少年愛」という要素も見えてくるんですよ。(略) 明智小

 

五郎と小林少年との関係はもちろん、「怪奇四十面相」(1952年)では、やたらと二十面相が小林君

 

が可愛いとか、偉いとか褒めているところがあるんです。また「怪人二十面相」でも小林少年が二十面

 

相のアジトに潜入するために、全身裸で金粉を塗って観音像のふりをして行くんです。そんなことを大

 

の大人が気づかない

 

わけないんですが、二十面相は観音像になりきった小林少年を見て、「おお、なんと美しい」と言って

 

あげているんですよ。                       「大槻ケンヂが語る 江戸川乱歩」

 

  乱歩には少年愛の性向があったようだ。大槻ケンヂによれば乱歩はショコタン(鉄人28号を操縦機

 

で操る半ズボンの正太郎少年の世代を好む同性愛者)なのだ。「少年探偵団」がどうも、それっぽい雰囲

 

であるのは、事実の検証をしなくても察せられるし、石原慎太郎がばらした話だが、江戸川乱歩夫婦に

 

ゲイバーに連れていかれた時、乱歩が少年を膝に載せてキスをしていたそうだ。(そんな記事をどこで

 

読んだ記憶がある)夫婦同伴というのも流石、乱歩だ。

 

 話が戻るが、あの膨大な頁数の自伝が、乱歩の秘密を守る防波堤であるというのは頷ける見解だ。

 

 対談、エッセィでは小林信彦は江戸川乱歩に対して、敬意をはらっているが、小説「半巨人の肖像」では

 

客観的にその不気味な面も描いている。小説家の性なのだろうと思う。

 

 追記

 

 もう少し書きたいこともあるのですが、引用を書き写すのに疲れてしまいました。不完全なところは後日

 

加筆、訂正します。