サド   秘教文学の王者          W.レニッヒ | やるせない読書日記

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書評を中心に映画・音楽評・散歩などの身辺雑記
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 僕がサドの評伝を読んだのは澁澤龍彦経由である。


 澁澤龍彦を読んでいると、どうしてもサドは避けて通れない。澁澤龍彦の五十歳以前までは


サドは大きな比重を占めていた。ちゃんとした澁澤龍彦のサド解釈については、僕などにはと


ても書けるものではないが、未だに澁澤がサドなんかに入れあげたのか僕にはよく解らない。


 若い頃、何冊かサドを読んだことがあるが、読んでいると気持ち悪くなるし、親や親せきの前で


こんな本読んでいるなんて恥ずかしくて言える内容じゃなかった。左翼運動の隆盛とその運動への


幻滅からサドは需要があったようで、フランスでも60年代から70年初頭あたりまでこの困難な作家


を論じるのがトレンドだった。澁澤やその他の偉い人の云っていることを凡庸な脳味噌で理解したとこ


ろでは、人間の性を突き詰めていったらこういう恐ろしい人間と人間の関係になる。もしくは性を自由


に置き換えて人間の自由を突き詰めていったらこういう恐ろしい人間と人間の関係になる。サドの小説


はエロ本などではなく哲学小説である。実生活でのサドの性犯罪なんて今でいえばSMクラブのプレイ


程度のものだ。マルクスと並びうる読書家で博物学的探究心がある人だ。まあ、そんなところである。


 そういえば、「社会主義の体制でもサドは発禁になるんだろか」なんて議論もあったような気がする。


 サドの評伝は思ったより少なく、僕の知ってる限りでは澁澤龍彦の「サド侯爵の生涯」と澁澤のネタ本


になった澁澤訳のジルベール・レリーの評伝、。それからフランスでサドの全集を出版した人の「サド


侯爵の生涯」。ただし、これは1巻、サドが37歳で捕まるまでしか記述されていない。


 サドがライフワークというわけでもなく、これ以上評伝を探す気にもならず、サドの事なんて忘れてい


たが、この前、図書館にいくと偶然、サドの評伝が二冊見つかったので借りてきたわけである。


 本書は「ロロロ伝記叢書」(なんじゃこりゃ)として刊行されている。1984年刊行。つたない脳味噌で奥付


とか検証するとどうもドイツの叢書らしく元の発表年は1,965年のようだ。「ロロロ伝記叢書」も原著者も訳者も


知らなかったが読んでいて面白かった。割と薄手の本である。もっとも僕がサドの評伝を以前に読んでいた


ので解り易いが初めて読んだら説明不足かもしれない。ドイツでも有名なのねサドって。


 上記、三冊の評伝を割と丁寧によんでいたつもりだったが読み落としや理解がちゃんとなされていなか


った箇所が本書を読んで幾つか分かった。


 一応、メモということで。


 (1)1740年に生まれて1814年に死ぬまで、この人は30年間、監獄、精神病院をたらい回しになり最後


も有名なシャラントン精神病院で幽閉されたまま死んだ。ずっと続けて三十年というわけではなく、断続的


にある時は馬鹿な変態行為から、五十代の中頃の逮捕は己の処世術の拙さにより、そして最後には


フランス革命の騒擾を制圧したナポレオンにより公共の安全に危険な精神病者として61歳で拘束され


73歳で死ぬまで閉じ込められる。具体的には「新ジュスティーヌ」 「ジュリエット物語」という猥褻本の


作者として「精神病者」として拘束された。


(2)シャラントン精神病院でサドは収容されている精神病者(割と軽度の患者だが)を役者として使い


 自分の演出により芝居を上演した。これが馬鹿受けして。


  シャラントンの精神病院劇場はパリの社交界の一部にセンセーションをまきおこした。宮廷女官、


 銀行家、社交界の名士、それに演劇人の中にはパリの有名な女優たちが含まれていたが、この人々が


大挙してシャラントンにおしよせてきたのだ。


 本当かね。


(3)サドは直接には娼婦を鞭打ち、鶏姦を強要したマルセイユ事件その他の変態行為、キリスト教への


冒涜などで37歳の時に捕まり、最初はヴァンセンヌ、次にはバスチーユに50歳まで拘束され、獄中での


「作家生活」が始まるのだが、僕はサドの小説のなかで悪党が縷々、開陳するインチキ臭い哲学的弁明


なんて後でとってつけたようなアリバイで、団鬼六のように牢屋で自分の変態性欲を満足させるために


碌でもない小説を書きつづけたのかと思っていたがそうではなく「哲学的意図」は最初からあったようだ。


 例えば、団鬼六の「花と蛇」なんて文学とかそんなもんじゃなく、加虐的な性向をもった人の妄想を満た


す為の小説であの小説がやたら長いのは食欲と同じように性欲も完結性がなく延々と続くことによるの


だろう。団鬼六のサディズムはソフトなものだったが、サドのようにより過激で実生活でもスカトロ趣味や


サディズムに相反してのマゾヒズム(小説の中の近親相姦は実生活の欲情では存在せず、より小説を


汚らしくするための手段だろう)まで持っている人が適当につけた屁理屈と思っていたが。


(4)割とまともな小説「アリーヌとヴァクール」を獄中で執筆していたとは知らなかった。


(5)獄中で書かれた「原 ジュスティーヌ」より1796年、フランス革命の真っ最中に匿名で出版された


 「新 ジュスティーヌ 」「ジュリエット物語」のほうが残酷描写が酷いのは、実際にギロチンやその他


 のおぞましい現実を目の当たりにしたことによる。


といったところです。


でもサドなんか、別に読まなくてもいいような気もする。


昔、江古田にある映画館でパゾリーニの「ソドムの市」を観たときの気分の悪さは忘れない。映画館


中の観客の心が冷え切ってしまっていて妙な連帯感があり、気持ち悪いのと恐怖と怒りとそれにも


まして恥ずかしいという感情にあんなに捕らわれたことはなかった。

 

 ちなみに、知人で「ソドムの市」を評価する奴はほとんどいなかった。唯一、まじスカトロだという噂の


人があれは面白かったですな。といって変態っぽく笑った。


 まともな人間はこんなもの縁遠いよな。