1997年に書かれた横尾忠則の精神世界物の一冊。1936年生まれの横尾はこの本を書いた
時、すでに60歳!であるが旺盛な好奇心はまるで歳を感じさせない。いわゆるチャネリング
物で他の人が書いたこの手の本はおそろしくつまらないが、横尾の書く世界にはどこか健常
の感性と通底するものがあり「地底世界シャンバラ」も「金星人キリ」「前世がニギハヤヒノミ
コトに関る魂」などの荒唐無稽な事象も面白く読むことができる。これが素人の書いた文章だ
と腹立たしくなるほどつまらない。完全に「いっちゃって」いないのが芸術家なのだろうか。
「私と直感と宇宙人」は第一話 ワシ(滝の夢を想う)、第二話 彼(自己を想う)、第三話
わたし(宇宙人を想う) からなっていて第一話はワシという一人称で、第二話は自分を彼
と表記し、第三話では私と人称が変わるが、あんまり大した意味はないように思えるし、三部の
編成に厳密な構成があるわけではない。随所で語られる横尾の死や、自らの「神秘体験」と芸
術活動の相関関係などがいかにも横尾忠則で面白い。
多くの死後世界の探訪記、宇宙人とのチャネリング、宗教の教義と同様に横尾の「精神世界」
は混沌としていて整合性などまるでない。ある時は五百万光年はなれたシリウスの生命体が
横尾に宿り、ある時は三島由紀夫の死後霊と交信、テレパシーでUFOを呼び、女性の形をし
た宇宙の生命体、天使を感じ、半透明の宇宙人を旅先のホテルで見る。日本の神話の霊と
宇宙人は同列であり、金星人に言わせると宇宙には大きな神がいる。横尾の芸術は大きな
宇宙の意志を表明する媒体であり、ある種の夢はどこかで宇宙と繋がっている。死と宇宙は
ほとんど同一のものとして語られる。等々である。
不可思議なものを拡大生産的に次々と刹那的に作り出しているのが横尾の精神世界である。
だが『読んでいて不思議と面白い。
ワシは近代合理主義に毒されている一部の読者に再び顰蹙(実に難しい字だ)を買う羽目に
なるが、先ず物事を疑ってかかるという近代合理主義者と違って、ワシは先ず不可解なこと
でもそれをしんずることを優先する人間なのだ。信じないということは科学知に頼り、また自己
の思想(判断以前の単なる直感の立場に止まらず、このような直感内容に論理的反省を加えて
できあがった思惟の結果=『広辞苑』)の範疇から出たくない経験至上主義者やと思う。こういう
タイプのインテリがいくら近代の自我の崩壊を考えてもワシは信用しないことにしとる。
この種の人間を一番軽蔑していたのは三島由紀夫だった。彼らはだいたい三島さんの言う「
義」などを持ち合わせていなかったから、当然、言霊のことなんか知らんはずや。
ところが大衆はこの言霊によって芸術のパワーを見分けているのや。
横尾は幽体離脱を何回と経験したり義母の幽霊を見たり、部屋の中に小型のUFOが着陸して
宇宙人がそこから出てくるのを目撃した人である。人間にはこういう体験をする種類の人がいる
らしい。実際にこういう体験、三島由紀夫の霊と交信したり金星人のテレパシーを受信したり
幽霊を見たりしているのだから、それは科学性がないとか論理に整合性がないじゃないかと
言っても仕方がないことなのである。
「色々な人の証言によると横尾忠則は高名な芸術家ではあるが、それを鼻にかけたり人に対して
尊大な態度をとることのない控えめな性格であるらしい。また作品や文章から偉ぶっていない
人柄が感ぜられる。(ただし怒るともの凄く怖いらしい)そういった人柄がこの荒唐無稽な「精神
世界」を楽しく読ませてくれるのだと思う。
でも最後に突っ込みをいれればなんで金星人や宇宙人はキリとかサッシュなのだろう。太郎
とかでん助じゃ何故いけないのでしょうか。