芸術新潮  2008年6月号  横尾忠則の大冒険 | やるせない読書日記

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昔、安いツアーでパリのオルセー美術館とか人並に見物して美術の教科書に掲載されて


いる有名な名作を見て「うわー、きれいだなあ」と驚いたが、家に帰って優秀な日本のテレビ


を見るとその発色の美しさたるや泰西の名画をしのいでいるではないか。


ああやっぱテレビっていいなと思ったのである。


まあ僕の美的感性なんてそんなもので、昔ピカソの画集を持っていたが古本屋に売ってしま


ったし今もブリューゲルとかラフアエロとかの廉価な画集があるが頻繁に見るわけでもないし


人並に有名な展覧会があると暇つぶしに行くといったところが絵に親しんでいる度合いである。


横尾の特集は若い頃からの膨大な作品をダイジェストで紹介している。特に近年の1990年


代半ばからの「赤の時代」の油絵は強烈である。


一番ショキングなのは宇宙につり橋が架けられていて何人かの少年、少女が橋の上を歩いて


いるが赤い闇に覆われて前の二人はほとんど後続の二人も赤い闇のなかに溶解していく。


赤は味覚の甘さと同様、人間が感じるもっとも始原的な色だと言われていて、確か夢のなかの


印象的な色彩も赤だった。毒々しくて人間を不安にする色でベルイマンの「叫びとささやき」に


使われていた赤と相通ずるものがある。


Y字路はさらに進化して怪人二十面相が夜のY字路に出現したり、夢の中の光景とY字路が


合体したりする。黄色や茶色は吐しゃ物のように汚らしい。


確かに観ていて面白いのだが、絵画が与えるゆったりとした安心感というのは皆無である。


パリのオーランジェリ美術館にモネの大きな「睡蓮」が展示されてあって絵の仔細は忘れてしまった


がくつろいだ高尚な感覚に満たされたが、横尾の絵画はそういったものとは対極に騒がしくで


禍々しい。収録されている中条省平との対談でインファンテリズムこそ創造の核にあるものだという


三島由紀夫さんの言葉に、ぼくも大いに同感です。幼児性への強迫的な執着がぼくの創作を支え


つづけていることはまちがいない。それを失うことに、ぼくは耐えられない恐怖を感じるんです。


自分の幼児性への執着を述べている。では幼児性とは何かといえば愛情にまで成長していない


性欲、悪ふざけ、グロテスク、死、眩暈、白痴的な不条理といったところで「死」は横尾の若い頃からの


普遍的なテーマだったが最近の作品になると腐乱した死体の匂いのような醜悪さまで漂っている。


そういえばモネの「睡蓮」が涅槃をテーマにしているという記憶があるが横尾の作品はそんなお上品


なものとはほど遠く放置されて腐った死体」のような凄みがある。


でまあ素人の感想なのだが、ぶっちゃけて言えば横尾って絵が下手すぎないか。


例えばボッスとか横尾以上に物語的でスカトロは出てくるは畸形の化け物は出てくるはの世界


だが技術的に優れていて構図とかデッサンがしっかりしているし色もきれいだから主題の割りに


は観ていて安定感があるが、横尾の絵はデッサンもなんかおかしいし色(これはわざと汚くしているの


かもしれない)も小汚くてこれが観る人にうまい人の絵にはない迫力を与えているのかもしれない。


イラストとかシルククリーンならまだ誤魔化しがきくが、油絵となると専門的な修練がいるジャンルでは


ないだろうか。小津の悪口がいいにくいように横尾忠則の批判はできない存在になっているのだろうか。


アンリ・ルソーのパロディも幾つか掲載されているのだがご本家に較べると技巧の稚拙さが際立って


しまう。


やっぱ下手は下手だ。


僕が好きなのはシルクスクリーンでコラージュしたり、下手だがインパクトのあるイラストを描いていた


横尾だ。「話の特集」だと思うが、ジョン・レノンの変遷をテディ・ボーイのジョンから長髪で髭を蓄えた


丸いメガネのヒッピー風のジョンになるまでを白黒のイラストで同じ画面で描いていた。


これが良かったし、江戸川乱歩全集のイラストも美しかった。


でも油絵は面白くない。


もし横尾忠則がダリ並のテクニックを持っていたらどうなるのだろう。