寄席放浪記 | やるせない読書日記

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1986年刊行の「寄席放浪記」を定本としている。河出文庫で2007年再出版。


色川武大は1929年(昭和4年)生まれで1989年(平成元年)、六十歳で亡くなった。五十六歳


の執筆で談志、菊村至などとの対談も収録。落語、色物、浅草の軽演劇、時代劇などの芸人


の主だった面子は戦前の昭和14、5年から昭和50年くらいまでの人々。テレビというマスメディア


に笑いが吸収されてしまう前の、東京の街のそこかしこに寄席があり、浅草で軽演劇の


興行がうたれていた時代である。



私は牛込矢来町の生まれ育ちで、私の子供の頃は近くの神楽坂がまだけっこう賑わっていて


映画館が三つ四つ、寄席も小さいのまでいれると三つ四つ、寄席までいれると二つ三つあった。


父親が退役軍人で閑があったせいか寄席が好きでね、だから最初は親に連れられて行ったんだと


思う。


ところがどうも学校というものに馴染めなくて、サボって街の中をうろついていたので、映画や寄席


ばかりでなく、浅草のレビュー小屋や東京都内に点々とある小芝居まで、よく見ていたな。十歳ぐらい


の頃から約五十年ぐらい、たっぷり見ているから、本人は何の芸もないけれども、見る眼だけは肥えてる


んだな。



通常の生活からドロップアウトして居場所を寄席や芝居小屋に求めていたわけであるが、寄席で


かかる芸がみな素晴らしいものであるかといえばそうでもない。


それは(つまらないB級映画を夜一人で見ているときの空しさ)寄席の味と似ている。たくさん出演者が


出てきても、本当にいい高座は一夜にひとつあるかなしで、大部分は辛抱してきかなければならない。


退屈な寄席というものは、相当に苦痛で、居ても立ってもいられない。なぜ自分は貴重な時間をこん


なところですごしているのか、と思う。ところがそこに中毒してくると、まさにその退屈を味わいに来て


いるので、そこが贅沢な遊びだということになるのだ。落語の「あくび指南」の、舟で退屈している若旦那


の心境ににているかもしれない。


「1寄席書き帖」、「2色物芸人たちの世界」、「3ぼくの浅草六区」、「4時代劇の役者たち」で構成されている。


1では落語家、その他は表題にそった芸人を扱っている。各章に対談を併録。色物芸人に関しては


談志。マニアックである。扱われている芸人は網羅的という様相もあり頁数が多い。


円生、志ん生、小さん、文楽といった大看板を色川が観なかったはずがない。


とりわけ文楽についての文章がいい。



暑いにつけ寒いにつけ、桂文楽を思い出す。落語は季のものだから、どうも四季おりおりに思い出すきっ


かけが埋まっている。


しっとりとした書き出しで文楽の芸について論じている。古典というのは先代の忠実なコピーに留まらず


次代の演者が、それぞれの個性、それぞれの感性で活かし直していくものであり、文楽の古典の解釈


については。


権力機構からはずれた庶民、特に街角の底辺に下積みで暮らさざるをえない下層庶民の口惜しさ


切なさが、どの演目にもみなぎっている。その切なさの極みが形式に昇華され笑いになっている。


「厠火事」のおしまいにちょっとしか出てこない髪結いの亭主だって、その影を話の上に大きく落とし


ている。文楽の落語はいつも(女性が大役で出てきても)男の(彼自身)呟きだ。それが文楽の命題


であったろう。


色川によればジャズのスタンダードとプレイヤーの関係と古典落語と演者の関係は近しいものである。


だが色川がより愛しているのは華やかな大看板ではなく、二線級、三線級の落語家たちであり彼等が作


りあげる鬱屈とした事柄である。昔々亭桃太郎は柳家金語楼の弟で相貌が兄と似ているために何をやっ


ても今ひとつぱっとしなかった。林家正太郎は若手の頃から妙にベテランの味をだそうとしてどんな話を


してもショボショボしていた。春風亭柳亭門下に移り春風亭小柳枝に改名。いつの間にか化けて落語が良


くなり可楽襲名。それもつかのま結核と糖尿病に罹り亡くなってしまう。面白い存在として評価されだしたと


ほとんど同時に、病を得、早々にたおれた。まるで昆虫の一生のように、束の間の光を得て死んでいった。


桂小南は桂文楽の最初の師匠。色川が少年の時見た小南は背の高い不気味なお爺さんで七度狐、なん


という話で場内がひっそりし、思いいれたっぷりに演じる小南のその片っ方の眼が、灯りに映じて虹のよう


な色に光る。すると子供心に、なんだか本当に狐に化かされたような気分になったものだ。不気味な落語


家というのも珍しい。戦後、引退するというので真打をとったが、「-もう隠居ということになりまして」


と、なんとなく陰気に枕をふりだしたのが頭に残っている。陰気な落語家はその後まもなく死んでしまう。


色川武大が少年時代観た落語家たちは当然、色川より年も上で1986年色川が56歳になった当時はほと


んどの落語家たちは鬼籍に入っていて死んでしまった。訃報を聞いた。亡くなった。という言葉で文章が


終わっている。落語家に限らずこの本に書かれている芸人にほとんどが亡くなった人ばかりで零落したり


鬱屈にまみれて貧乏して死ぬというパターンが定形になっている。


章が進むにつれてでダウナー度は加速する。色物芸人の世界では、脳梗塞で下半身が動かなくなった


剣舞の芸人、盲目ではげ頭の大入道の三味線漫才などの異形の者。大正琴、ハーモニカ、指笛、


バイオリンなどの今ではほとんど成り立たない情けない「芸」など。そして芸人たちは一様に年老いて


死んだり死んだ噂で結末を迎える。


3ぼくの浅草六区は戦前の笑いのメッカ浅草の芸人たちについてである。


アパートで焼死したビートたけしの師匠、深見千三郎。ずっと芽が出なかった軽演劇の柳寿美夫。


ガマ口と言われた歌手、高屋朗。戦後自殺未遂の報道の人となる。


「流行歌手の始祖  二村定一」 私は子供のころ、叔父の家のレコードで二村の唄と顔を知った。


実にどうも白粉と口紅のみ濃いピエロの顔で、エログロナンセンスという言葉は知らなかったが、


じだらくな人を想像した。このじだらくな人がどうやって生きていくか、なんかじだらくの罰が当たって


転落してしまいそうで、感情移入したくなる。私は自分のことを棚にあげて、というより自分が劣等生


なものだから、他の危なっかしい人物のことをおろおろ心配するくせがある。


その心配とおり、当初はエノケンと二枚看板の羽振りが、エノケンの格が上がると我慢できずに劇団


を退団。喰えないのでまた劇団に復帰などを繰り返すうちに格がどんどん下がっていく。最終的に


はエノケンと喧嘩して劇団を飛び出し凋落は加速していく。男色家でもあった。満州に渡り、酒に溺れる。


戦後、エノケンに拾われ劇団に復帰。だが失墜は続き、肝硬変の動脈瘤出血で四十九歳で死ぬ。


鈴木桂介と淀橋太郎という芸人を迎えて鼎談が巻末をしめているが、これが死んだ芸人のあること


ないことの噂話で凄まじい。


「時代劇の役者たち」


はじめて観た映画というと、四つか五つの頃、親に連れられて、靖国神社の祭礼の夜、野外で観た


映画である。というのだから怖ろしい。チャンバラ映画も色川はほとんど観ている。スターを挙げれば


市川百々之助、河部五郎、大河内伝次郎、坂東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川歌右衛門、


月形龍之介、黒川弥太郎、尾上菊太郎、大友柳太郎、沢村国太郎、原建策、羅門光三郎、市川


男女之介、大谷日出夫。その他二線級、女優に移っていくが必ず役者に対する寸評をしている。こ


れがマニアックですごい。その他アノネのおっさんの俳優、旧華族のお嬢様女優入江たか子が戦後


化け猫映画のクィーンなら戦前の化け猫女優が鈴木澄子。例によって落ちぶれた後どうもうまく人生


を送れない人物は小笠原章二郎。学習院から陸軍幼年学校に入り病気で中退して俳優になった人


である。父は子爵である。


私は今でこそ幸運に恵まれてなんとか生きつないでいるけれども、子供のころはまったく世間と


かみあわないで、自分の未来の姿というものがどうしてもつかめなかった。どういう生き方もでき


ないで、どこかで息づまって窮死するのだろうと思っていた。


それで世間のほうを見渡して、自分と同じように、社会から落ちこぼれて汲々としている人は居ない


ものかと思う。それらしき人がみつかると、同胞をみつけたように安心してその人の行く末を眺めて


いた。落ちこぼれといってもいろいろなタイプがある。中学に受験の手前のころだったと思うが、さす


がに不安でそれと思える人たちの名前をノートに書き並べて番付を作ったことがある。


自分一人で、それを駄目番付と称していたが、むろん、私自身がその中の大きな位置を占めていたの


である。


この感性にひっかかるのだから凄い人なのだ。ゾッとするような美男なのだがボケ役の三枚目になって


しまう。白塗りで馬鹿殿とか道楽若旦那ばかりである。出た映画も「ひやめしお旦那」「殿様さまやくざ」


「お旦那変化」とかどう見てもB級。セリフも少なく「よきにはからえ」それだけを繰り返していた映画もあ


る。戦争中は売れなくなる。他の役はできないのである。浅草のアチャラカ芝居にでても馬鹿殿様一本槍。


戦争末期は精神病院に入ったという噂がたつ。戦後は意外なことに端役で存在感を示すようになる。


「蟹工船」「真昼の暗黒」などにも出演。小津安二郎の『東京物語』でも、東京駅の待合室の中の客と


して後景に居る。ただ居るだけでやはり一種の存在感がある。そしてこの人もこの時点ですでに故人で


ある。



色川武大の年齢のせいか若い頃から見た、芸人たちのほとんど故人である。多くの芸人たちが、あまり


売れずに屈託して時には精神に異常をきたして年老いてそして死んでしまう。負のカードばっかり集めて


勝負に負けるがとにかく形にはなる。死という絶対的な落ちである。


男色の性癖があるわけでもないのに色川は駄目さ加減や零落に魅かれている。読んでいる僕たちもゆったり


としたデカダンが心地よい。まるで寄席の楽屋は生と死の幽明界のようだ死んだと噂された芸人がひょっこ


り顔を出すのだ。


僕には色川武大の無頼が生半可なものではないように思える。社会にアンチするわけではないが、もと


もと生産的な社会からはドロップアウトしてしまう心情を抱えている。怠惰や頽廃に近しい感性かといえば


そんなことはない。


小学生の頃、当時のハリウッドの役者、助演級からほとんどセリフの無いに近い人たちまで覚えこんだ


だけでは足りず、監督、カメラマン、音楽、脚本家、製作者、助監督に至るまでノートに筆記して覚えこ


んだ。ジャズ、ヴォードビルの芸人もノートを作った(略)


その頃は寄席の人、軽演劇の人、小芝居の人もみっちり覚えこんでいた。戦時中の中学生の頃、旅


役者名鑑を個人的に作ろうという壮大な志に燃えて挫折したことがある。


芸人ばかりではなく、力士は取的まで当時はほとんど知っていたし、方々の夜店の売り手も顔だけは


かなり幅広く知っていた。乞食の名鑑を造ろうと発心したこともある。


博物学的な蒐集意欲を感じる。マニアックと言えば言えるが、乞食の名鑑というのも凄い。


この旺盛な探究心は特筆すべきものだと思う。ハンパしゃない。