ニ三年前に読んで面白かった本。最近サドを読むようになって、サディズムは人品まで
及ぶのかと思いもう一回、読んでみた本。団鬼六にとってはサディズムは趣味の範囲で
あり、卑しい性癖はその人の品性までには及んでいない。サド侯爵もそうなのだが、よっ
ぽどおかしい人でない限り四六時中、女を縛ったり、浣腸したりなどと考えていない。
後年、何かにこんな文章を書いていたように思う。
-華美で華麗な着物から下着類、風俗小説家なれば大いに力を注ぎいれる武家女や小町
娘の盛装を、蓬頭垢面の雲助あたりが寄ってたかって引き剥いでいく情景は、私などそれ
を錦絵のように艶っぽいものに感じてしまうのである。豆絞りの手拭いで固く猿轡を噛まされた
小町娘が、雲助たちにかどわかされて駕籠の中へ押込められる時、元結の切れた長い髪が
しなやかな肩先に垂れかかり、ふと恨めしげに見上げた娘の切れ長の眼の凄惨なばかりの
色っぽさーーー無残美という言葉があてはまるか、どうかわからないが、とにかくこういうシ
-ンを映画の中で見つけた時、私は恍惚として酔い痴れてしまう小学生だったのだから、や
っぱりどこか異常だったのかもしれない。そして、この小学校時代の性的嗜虐的幻想図は
中年過ぎるに至るも一向変化せず、性的嗜好は全く同一のものなのである。
エロスがどうだの反社会性が云々とか小難しいことは一切なく団鬼六の変態性欲の核心はこれ
だけである。団の出自と東京に出てくるまでの経緯は複雑で僕の筆力でちゃんと書き出すこと
は無理なので書かないが、昭和6年(1931年)滋賀県生まれの団は文芸春秋のオール読物
新人杯入賞で上京。曽祖父の代からの勝負師の血が流れており、まるっきりの空想世界に逃げ
込んで空中望楼を構築するタイプではない。そこが団の自伝の面白くしている。上京後、相場師
の小説が馬鹿当たりして映画化され大儲けをするが、クラブ経営に乗り出し失敗。多大な債務を
負い神経衰弱状態になり自分の楽しみに書いたエロ小説「花と蛇」をあの伝説の変態雑誌「奇譚
クラブ」に投稿。SM作家の端緒となる。それから先はチンケな小市民とは異なり波乱万丈の生活
を送る。東京から逃げ出し三浦半島の三崎で代用教員になる。当地での生徒に自習させて教壇で
SMを書いていたエピソードは有名。結局、職業としての教師、趣味としてのSMという二重生活に満足
できず東京に舞い戻り、映画会社に就職。最初はアメリカのテレビ映画のアフレコを行っていたが、
ひょんな事からピンク映画の脚本家になり、やがては自分のプロダクションでエロ映画を製作。
その間、大作「花と蛇」を延々8年にわたり「奇譚クラブ」に執筆。大エロ作家としても名を挙げる。
1972年からは谷ナオミとコンビで日活でSM映画を製作。等々である。
とまあこんなところで止めておこう、自伝はエンターティメントの王道のエロ小説を書いてきた人だけ
に楽しめるエピソードが満載である。ただそれをまとめる書く力が僕にはなかった。単行本の解説が
手際よく本の粗筋をまとめているのを見るとプロはやっぱすごいと思う。
団鬼六の本筋のSM小説は読んだことがないし読む気もしないが、将棋に題材をとった「真剣師 小池
重明」など非常に面白かった。天賦の才能か文章がうまい。団鬼六の魅力はSM云々よりもはずれ者の
人の良さを具えているところだと思う。これは色川武大にも共通している資質であるが。
団鬼六はSM劇団も主宰したが、その座長がなんとたこ八郎。団はたこの親分格でありアウトローに接する
に優しく面倒見がいい。
昔、団鬼六がテレビに出ていて「昼間は女房にいじめられているが、夜になるとお返しにいじめる」と発言
していたが、あっちの趣味も随分健康に普通の生活の中に納まっているものだと感心した覚えがある。
これからは純文学など生意気な事は考えるまい。周囲に対する気兼ね、気づまりなど一切、排除し
鬼のような気分で淫靡残忍ないやらしい小説を書こうじゃないか、と、心に誓ったのである。昭和六年
生まれの男が、今、鬼のような気持ちで、と思った途端、こりゃ、いいと感じて鬼六とペンネームにした。
団鬼六をペンネームにした由来である。やっぱ世に出る人というのは根性が違う。千草忠夫のように
匿名で作品を書いている人が大半のエロ作家のなかで最初からカミングアウトしているのは珍しい
ケースだと思う。
団鬼六は昭和61年、51歳でエロ小説、エロ映画で稼いだ金で横浜に豪邸を普請する。旅館を九千万で
買い取り、一億二千万をかけて地下一階、地上三階の威容を誇る建物に改築した。
鬼のような気持ちになって物事に打ち込んだ人は違う。