虚構地獄 寺山修司 長尾三郎 | やるせない読書日記

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寺山修司に「われに五月」という詩集があり以下が巻頭の詩である


  二十才 僕は五月に誕生した


  僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる


  いまこそ時、僕は僕の季節の入口で


  はにかみながら鳥たちへ


  手をあげてみる


  二十才  僕は五月に誕生した


正直に言えば僕はこの詩が大嫌いである。何故かと云えばどう考えても作り手の内奥の感覚とは


言い難いのである。だから良く読めば表現が嘘であることが分る。第一、寺山は五月生まれではない。

そしてはにかみながら鳥たちへ 手をあげてみる人はいないでしょ。僕は観たこと


がない。そんなことは現実にはありえない。イメージとして浮かぶのはマンガ風の絵があり青年が手


をふり、マンガ的定石の構図で鳥が飛んでいるというものだ。女の子は好きかも。そして随分と甘った


るい抒情ではないか。寺山の作ったフォークソングの歌詞「山羊にひかれて」「時には母のない子の


ように」「カモメ」「戦争は知らない」とかそんな程度のものでしかない。


演歌の作詞家の先生が言葉を見繕って適当に当てはめていく作業と同じことをしているだけだし、


二十才  僕は五月に誕生したという青臭さも堪らなくいやだ。


もう一つ寺山の盗用問題で俎上にあがるのが


 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや


寺山の短歌でも代表的作品で、三沢市の小川原湖畔に石碑まで建っている歌であり、復員兵の


感慨を歌っているとされるが、悪く言えば盗作、良く解釈すれば、「コラージュ」になるらしい。この


歌にはモトネタに三つの俳句があったとされる。


  夜の湖ああ白い手に燐寸の火           西東三鬼


  一本のマッチをすれば湖は霧           富澤赤黄男


  目つむれば祖国は蒼き海の上           同


俳句や短歌は字数が少なく自作に独自性をもたせるのは困難であろうが、どう見ても盗用しているように


見える。まあ盗作でもなんでもいいのだ。模倣は表現にはつきものだ。だが例によって寺山の表現は歌謡曲


的というか俗っぽい。そしてこういう歌がうけるだろう時代の雰囲気をキャッチしている。これは才能といえる


だろう。


  アカハタ売るわれを夏蝶超えゆけり母は故郷の田を打ちてむ


「チェホフ祭」(1954年・昭和29年)の作であるが、まったくの嘘である。寺山は共産党に入党したことなどない


し母親は米軍のハウスキーパーとして働いていたのだ。ここには肉声などないがジャーナリスティクな嗅覚


でどういう作品が受けるかという戦術はある。


そんな訳で、僕は寺山修司はそんなに好きではない作品もそんなに読んでいない。本も何冊か買ったが


寺山らしさというのに触れるとなんか白けてしまうし。昔、ハプニングを寺山が標榜していた時もなんだかね


と世間の人が思う感想を持っていた。だが寺山に関する本は何冊か読んでいる。作品はつまらないが、人間


はすこぶる面白いし、こんなに寺山本が多く出版されていたとは思わなかった。


つい最近、満を持して秘書だった田中未知が出した本を含めるとかなりの冊数になる。


著者の長尾は寺山より三つ下、早稲田の演劇科卒。直接の交流はない。各々の書き手によって寺山像は


多少異なってくるが長尾の場合、寺山の模倣に関してはいささか甘く、寺山と父との関係はほとんど書かれ


ておらず、晩年の失墜の原因になった寺山の「覗き」についてあまり考察されていない。


感想を書くために寺山の作品を少し読んでみたがやはりおもしろくない。僕にとって寺山の虚言癖、厚顔無恥


な模倣、友人や恩師を平気で裏切る人間性、母親にたいする近親憎悪。という低俗なレベルで実に寺山


は面白い。まあせっかく読んだので天井桟敷結成までの寺山修司の簡単な道程など。


寺山修司は1935年・昭和10年12月10日に弘前市で生まれる。父寺山八郎24歳で警察官、母はつ22歳。


はつは坂本家の私生児であった。寺山は一人っ子。1941年・昭和16年父出征・昭和20年に父は戦死。

父が出征以降は青森で母子二人暮らすが、1945年・昭和20年の青森爆撃で焼け出され三沢の父方の


叔父の家、寺山食堂の二階に転居。終戦後母親が三沢の米軍基地にハウスキーパーとして勤めるように


なると父の兄と折り合いが悪くなり、翌1946年、青森の母方の親戚、坂本家に修司だけ預けられる。親戚は


歌舞伎座という映画館を経営。母は福岡県の米軍キャンプで働くため三沢を出る。修司は12歳、青森市立


野脇中学、県立青森高校へは親戚の家から通う。早稲田大学教育学部に1954年・昭和29年、18歳で入学。


20歳でネフローゼで入院。母はこの頃、立川のキャンプで働いている。23歳で退院。ラジオ、映画のシナリオ


が売れ25歳で母親と渋谷のアパートで一緒に暮らすようになる。


父親、母親が揃っている生活が人間にとってノーマルなものであるとすれば、六歳の時出征したまま父は


戻らぬ人となり、更に母が12歳で家を出たため寺山は屈折した少年時代を送ることになる。さらに私生児


であった母は奔放なところもあり寺山に精神的な傷を与えた。寺山は自分の過去について平気で嘘をつい


たり母親を冒涜したりする。寺山と母の関係は作品解明の大きなポイントであるようだ。


寺山の母はつは終戦後、三沢の米軍基地にハウスキーパーとして勤めるが実は「オンリー」だったという


説もある。本書でははつの仕事について


 私は母・はつの名誉を貶めるつもりは毛頭ない。九条今日子もはつの名誉を守ってこういい切っている。


 「お母さんは実際には基地内の図書館に勤めていて、その後将校一家のメイドになったそうです」


だが杉山正樹「寺山修司・遊戯の人」ではこう言い切っている


  進駐軍関係者のなかには、全国から集まった娼婦の群れもいた。米兵相手のいわゆるパンパン・ガー


  ルである。町のあちらこちらに、それ専用の連れ込み宿ができ、アパートが建った。下宿やアパートで


  特定の相手とだけ関係する女性は、オンリーと呼ばれた。


  寺山の母も、そのオンリーのひとりで、元遊郭の番所だったのを建て替えて住んだ。(略)


寺山と両親との関係は別稿で詳しく取上げたい。


ついでに早熟の天才寺山修司の俳句、短歌、シナリオの仕事を30歳まで見てみよう。

 

1948年・昭和23年~1951年・昭和26年12歳~15歳青森市立野脇中学校時代 短歌、俳句、詩などに熱中


しはじめる。青森高校に一緒に進学する文学上の友人、京武久美を知る。


また、読書量も多くなってくる。


  寺山は、母・はつに出した別の手紙に、その頃読んでいた作家の名前を挙げている。


  「夏目漱石や芥川龍之介のは大ていよんでしまい、島崎藤村、山本有三、志賀直哉、森鴎外、


   田山花袋、谷崎潤一郎・・・・・・それにオルコットの若草物語や又青い鳥などを読んでいます」


 1951年・昭和26年~1954年・昭和29年 青森高校時代


   早くも高校生で後年のオルガナイザーとしての天才的素質の片鱗を見せる。高校入学と同時に新聞

  

   部と文学部に入部する。京武の俳句が地方新聞に掲載されると負けじと寺山も俳句にのめり込む。

  

 寺山の俳句も「東奥日報」に入選。学校に句会を作る。さらに驚くべきは高校2年生で「全日本高校生

  

   俳句コンクール」を主宰するのである。


     寺山と京武は、受験雑誌の『蛍雪時代』(選者・中村草田男)や『学燈』(選者・石田波郷)にも

   

     投句し、しばしば巻頭に推されていたが、寺山はそれらの雑誌に入選する顔ぶれがいつも同じ


     なのに注目した。


     「おい京武。この連中と一緒に何かやれねえかな。たとえば、全国高校生俳句大会ていうの


     はどうだい?」


     「全国俳句大会?」


     さすがに京武は唖然とした。


     「そうさ。十代俳人を集合させてさ、新しい狼煙をあげるのさ」


     寺山のぶちあげた構想は壮大な夢だった。だが、いったん口にした寺山は信じられないほど


     の行動力で、その実現に打ち込んでいった。


     そして「老人の玩具から不条理な小市民たちの信仰にかわりつつあった俳句に若さの権利を


     主張して」という信念のもとに、その年の十月、「全日本高校生俳句コンクール」が実現するこ


     とになったのである。


     東北の青森から発信した寺山たちの提案に賛同して参加したのは北は北海道から南は長崎


     の高校まで全国にまたがり、十代俳人による総句数はおよそ千句にわたった。それを現代俳


     句作家二十氏に選んでもらい、総合点で順位を決定することになった。山口誓子、中村草田


     男ら俳壇の大御所たちも援助を惜しまなかった。これは稀有な発想と行動力といっていい。


  高校生離れした着想と行動力だ。「コンクール」の結果は京武が一位、寺山が二位、三位も青森高校

  

  が占めた。しかし寺山らしく「作品は未発表のもの」とういう規約があるにも関らず入選作は二重、三重

  

  の投稿をしたものだった。高校三年生で「牧羊神」という俳句雑誌を京武と立ち上げる。


1954年・昭和29年18歳早稲田大学入学


  寺山が売り物にしている自らの貧困が嘘であるのは明白だ。この当時、貧しい者は大学など行けない。

  

  この年刊行の「短歌研究」11月号に「チェホフ祭」特選になる。わずか18歳の快挙である。しかし自作

  

  の俳句を短歌に改作、他の俳句からの模倣などから批判される。本書の筆致は模倣に寛大である。


1955年にネフローゼで入院するが、入院中に詩劇「忘れた領分」俳句・短歌・詩が収録された「われに五月


を」1958年23歳で退院の年には谷川俊太郎(この人も僕は大嫌いだが)の紹介でラジオドラマのシナリオ


を執筆する。「ジオノ」。「中村一郎」1959年。1960年は寺山の才能の開花した年で劇団四季に書き下ろした


戯曲「血は立ったまま眠っている」ラジオドラマ「大人狩り」篠田正浩と組んだ映画「乾いた湖」のシナリオ、


テレビドラマ「Q」(イヨネスコの「犀」のパクリと言われている)など多産。このとき寺山、弱冠24歳である。


25歳 長編詩「李庚順」 26歳、第二歌集「血と麦」 放送叙事詩「恐山」 28歳、ラジオシナリオ「山姥」イタリ


ア賞グランプリ。ラジオシナリオ「大礼服」芸術祭奨励賞。29歳、「犬神の女」第一回久保田万太郎賞。


小説「あゝ荒野」第三歌集「田園に死す」などでありその他には自主映画もすでに何本か撮っている。


実に華々しい芸術活動である。盗作と批判されながらも主にラジオ、映画などのシナリオで売れた


寺山は一角の表現者になっていた。私生活では27歳で母から独立して九条映子と結婚。


そして1967年・昭和42年31歳で演劇実験室「天井桟敷」を結成する。短歌・俳句から寺山の表現形式は


演劇・映画が主体になってくる。それにつれて世間では馬鹿なことやってる奴らというスキャンダラスな


側面で売れてきて海外まで「天井桟敷」や寺山の映画は席捲するようになる。失墜がある日やってくる


1980年・昭和55年 44歳の時寺山は覗きで逮捕された。全くの冤罪という説もあったがそうではなく寺山


には覗きの性癖があり70年代にも逮捕されたことがあり、それ以前にも覗きを行っていた。


寺山が売り物にしていた胡散臭さ・反社会性が舞台から降りて犯罪になったとき寺山に挑発されていた


世間は反撃に転じた。寺山は叩きに叩かれた。その結果仕事は激減する。もっとも土俗性という60年代


の意匠をまといスキャンダル性を前面にだした「演劇」が80年代を超えられたか疑問だ。


そして昭和54年から肝硬変で入退院を繰り返していた寺山は1983年・昭和58年5月3日「肝硬変と腹膜炎


による敗血症」で逝去。享年47歳である。


寺山と「天井桟敷」についての僕の感想を書こうと思ったがこれも別稿にしよう。

僕は短歌や俳句といった表現形式がいまいち良く分らない。まず字数の制約、俳句に至っては季語の制約

がある、この中で月並み以上のものを表現するのは並大抵のことではなく、逆を言えば定形の中に言葉を

入れてしまえばどうにか体裁が整えらるものが短歌・俳句ではないかと思う。まあ誰でもこんな意見は吐くが。

そういう短歌・俳句自体に愛着をもたない人間が鑑賞するせいなのか、どうも寺山の短歌や俳句はおもしろく

ない。だが以下の句は大したものだと思う。

 便所より青空見えて啄木忌


 桃太る夜は怒りを詩にこめて


 わが夏帽どこまでも転べども故郷


僕のような凡人が二回生きてもできる表現ではない。寺山はやはり天凛の素質を持っている。にも関らず

安易な剽窃を意図的に行った。盗癖のある子供がいるが寺山の場合は他人の言葉や思想を盗むのが

好きだったのかもしれない。頻繁な模倣を見るとそんな気がする。

告白すると僕は高校生の頃、寺山が担当していた学習雑誌の詩の投稿欄に詩を投稿したことがある。

もちろん落選だったが。