青年期の心  福島章 | やるせない読書日記

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最近、大槻ケンヂ「グミ・チョコレート・パイン」と大江健三郎「セヴンティーン」と青春期の男子を


扱った小説を読んだので青年期に関して知りたかったので何冊か読んだ本の一冊。平明な文章


で分りやすく面白かった。一九九二年刊行。精神統合症は精神分裂病と呼称されている。


目次としては


・青年期という病


・青年期とは


・思春期の危機


・依存と反抗


・人と人のかかわり


・愛と性


・自分とは何か   アイデンティティ


・個性・性格・性


・イメージ世代


子どもから大人への過渡期である青年期はその年代に統合失調症などの発生率が高いことから青年期


自体が「危機」であるという説もあり、クレマッチーは青年期を正常、思春期困難、思春期危機、神経症、精


神病という分類までしている。僕自身確かに不安な時期であったが、いやな思いは青年期に限ったことで


もない。精神科の先生が書いた本なのでどうしてもノーマルな成長ではなく異常や疾病を基準に論考をすす


めるのは当然で、僕たち読者もそういったものを読みたいわけではあるが。


いろいろ書いてあっったが、青年期の定義とアイデンティティについてが特に興味深かった。


青年期についてこう定義している。


 思春期の発来にはじまり彼らが心理、社会的な自立をとげて大人の仲間入りするまでの時期と


 定義する。


思春期の発来とは第二次性徴で女子は初潮で11~12才、男子は精通で13~15才が平均とされ、


青年期の終わり心理ー社会的な自立の達成は本書では二つの概念を挙げる。一つは結婚で男子、


26~27才、女子24~25才。一つは年齢的な規定は特にないが就業である。この青年期から大人


への移行は歴史的に変わっていくものとされ、青年は18世紀後半以降になり認められた概念である


とする。青年期とは、いうまでもなく人間のライフサイクルの中の一時期であるから、人類の歴史の


中でいつでも存在したようにも想像される。しかし、実際はそうではない。かって人はほとんど猶予な


しにおとなになった。つまり、かっては子どもと大人の二つがあるだけで、その間に青年という特別の


存在形態がありうることは、ほとんど考えられなかったのである。


百年くらいまでは人間は心身の成熟を迎えるころには大人になっていった。十代で結婚し子供を産んだ


階級によっては十歳以前から就業し労働力として使われていたし、十四世紀以前には「子ども」という


特別の用語すらなく、こども用の特別の服装、玩具、本などがあらわれるのは十七世紀になってから


だという。さて、青年期の萌芽は生産構造の変化などを土壌にしている。


 西欧でも、工業化の波がひたひたと打ちよせるにつれて、職人として一人前になる技術の習得に


 一定の年数を必要とするようになった。かくして。修行時代とか遍歴時代といった今日の青年期の


 原型のようなものがあらわれはじめたのである。(略)


 一方、貴族階級の子ども用の寄宿学校は、同年代の子どもを集めて集団生活させることで、比較的


 早くから子どもたちに学生・生徒という特別の身分を与えていた。これを先駆けとして、しだいに庶民


 階級のためにもギムナジウムや職業訓練学校がつくられ、若者たちがそこで一定期間の準備教育


 をうけるようになってきた。


 産業社会は、工業化と社会的分業の発達、それに適合する労働力の育成の必要から、しだいに学校


 という教育制度を整備し、青年たちをもっぱら学生・生徒という形にまとめあげてきたわけである。


かくして人間に青年期は発生し人間の寿命が長くなるにつれ青年期は近年、長くなる傾向にある。


青年期は完結している時期ではなく、大人への過渡期とされモラトリアムの時期とも言われれる。


青年期は近代の概念であることなど本書を読むまでしらなかった。アリストテレスは人間のライフサイク


ルを子ども、青年、老人の三つに分けたがこの「青年」はなんと七歳から四十歳までを指し今日の


青年とは異なる。さらに産業革命期は十歳未満での就労などもあり否応なしに社会に組み込まれ


江戸時代十五歳が元服で妻帯、家督も譲られ一人前の大人になれば、もはや「僕って何」「親が


悪い、世間が悪い、先生が悪い、俺はちっとも悪くない」などとは無縁でなくてはならず、江戸時代


には盗んだバイクで海を見にいく十五の少年はたとえ江戸時代にバイクがあったとしてもまず見られ


ない存在だったのである。十五で大人になっちゃうんだから。だが、長い青年期、モラトリアムは平均


寿命が延びた今日、そう悪い面ばかりではなく精神の育成には寄与する。


次にアイデンテティについてである。これも言葉だけは知っていた。


 この年代では、「自分とはいったい何者であるのか?」「自分はこれから何になるのか?」「自分と


 は何をするためにこの世に生まれてきたのか?」といった、自我にかかわる問いにみずからをさら


 すことが多い。


 心理学では、こうした問いに答えることを自我同一性を形成するとか、アイデンティティを確立する


 といっている。


さて青年期以前の前思春期には自我の目覚めがある。


 それはある時突然にあらわれる現象で、「自分というものがある」という事実、「その自分は世界で


 ただ一人の存在である」という事実、しかもこの自分は悠久の自然の中で「有限の、ただ一回の


 存在である」という事実に直感的に気づく。


この感覚は僕には覚えが無い。大人になるにつれてなんとなく世の中が分ってきたような感覚しかない


が。

さて、アイデンテティの形成には社会の関わりが必要である。


 自我同一性(アイデンティティ)とはアメリカの精神分析学者エリック・エリクソンが一九五〇年前後に


 提唱してからよく使われるようになった言葉である。それはまず次の二つの側面を統合するものと定義


 されている。


  ①現在の自分と過去の自分とを有機的な連続性をもった同一のものとして受け入れることができ、し


   かもそれが未来に向ってひらかれた存在として、現在いききと生きているという実感がある実存的


   な感覚。


 ②同時に、自分と自分の属する社会との間に内的な一体感があって、社会から受け入れられている


  という感覚。これを社会同一の感覚という。



これは、少し難解である。②の説明は良く分るが①は僕には理解不能、類書では自我同一性は自分


自身が時間的に連続しているという自覚(連続性)と自分がほかのだれかではない自分自身であると


いう自覚(斉一性)とが、他者からもそのようなものとみなされているという感覚とに統合されたものを


いう。「やさしい青年心理学」と書いてある。これも良く分らない。自分自身が過去とつながっていない


感覚などあるのでしょうか。多分、統合失調症の一症例、自分という感覚がつめなくなる離人症なども


その定義に含んでいるのだと思う。この頃流行りの性同一性障害も自我同一と同じ使われ方をしてい


る。


釈迦は生れ落ちた時に「天上天下唯我独尊」と言った。すでに釈尊は生れ落ちた時からアイデティンテ


ィを獲得していたわけであるが、我々のような悟らざる者は先人を模倣し、どうにか知力も形成され、


色気ずくようになり初めて自分とは何かを考えはじめるのである。


「グミ・チョコレート・パイン」から少し長い引用をしよう。


 黒所高校二年D組の昼休みはにぎやかだ。生徒たちはそれぞれ仲のよい者同士でグループを


 つくり、ワイワイ言いながら弁当や学食の菓子パンを食べている。


 グループは男も女も、三つの種類に分類することができる。


 ひとつめのグループは、クラスの中でも比較的目立つ連中によって構成されている。このグルー


 プの特徴は、人気タレントの髪型を模倣した者が多いことだ。男の場合は、通称マッチと呼ばれる


 学園ドラマ出身のアイドル風に、軽くウェイブをかけた髪を左右に流した頭髪がもっともポピュラー


 となる。女生徒の場合は俗称カマチンカットなどと呼ばれる、アイドル松田聖子、もしくは中森明菜


 を意識したと思われるスタイルが主流となる。(略)彼らのもうひとつの特徴は、「自分がいかに不良


 であり、いかに遊んでいるか」をなるべく汚い口調で主張する点にある。例えば


 「私はきのう学校を休んでディスコに行きました」という一文を彼ら風に訳すなら、


 「数学のタブチやってらんねーからバックレて歌舞伎町のゼノンに行っちったよ」


 となる。


 といっても、彼らはいわゆるツッパリではない。マンガ『ビー・バップ・ハイスクール』に登場するような


 典型的なツッパリは地方特有の文化であり、都内にあんな奴がいたらただの笑いもんである。二年


 D組第一グループは、黒所高校の大半を占める、ごく一般的生徒たちである。賢三にいわせれば、


 「くだらん話題でしか盛り上がれない享楽的俗人間ども」ということになる。


第二のグループは、頭髪も特別ジャニーズ系というわけでもなく、口調もそんなに汚くもなくといった、


 普通の連中だ。このグループには、何人か賢三と会話を交わす者もいた。


 といっても本当にたわいのない話題であり、正直いうと賢三は彼らと話していてもあまり面白くはなか


 った。何の話にしてもレベルが低く感じられた。「この間テレビでやった映画、オレ、スゲー興奮したよ


 お」などと語りかけられても、それは賢三にとってはつまらないエンターテインメント主義だけで創られ


 たアクション映画にしか見えなかったりして「フンフン」と適当に相づちを打つのもめんどくさかったりす


 るのだ。賢三から見れば彼らは、「自分たちの凡庸さに気づかぬ俗人間ども」なのだ。


 第三のグループには、あまりにもハッキリとした身体的特徴があった。まず色が白く、ブタのように太


 っているか干物のようにやせているかのどちらか。そして全員がキラリと光るメタルフレームの眼鏡


 をかけていた。女はさえなく、男はこぎたなく、彼らはいつもボソボソと、何かコンピューター用語の


 ような単語を駆使して語り合っていた。「・・・・・クラリス・・・・マクロス・・・・・ラム・・・・・イデオン・・・・


 ザク」どうやらそれは、全てアニメの登場人物についてらしかった。彼らの共通の話題はアニメなの


 だ。このグループに関しては、賢三は複雑な思いを抱いていた。創作的行動に対する追求の仕方は


 同意できる。他のグループに対して壁をつくり、同好の者たちだけで集う気持ちもわからないではない。


 しかし彼らはどうにも不気味である。(略)


 賢三にとって彼らは「興味の対象と孤高のあり方を間違えた俗人間ども」だった。


 この三グループのほかにも、どこにも属さない者たちが何人かいた。例えば入学以来一言も口をきいた


 ことのない自閉症気味の山之上という男やいつもポカンと口を開けている萩という女生徒など。そして


 賢三も含め、彼らは教室内において「奇人」と見られていた。奇人同士は横のつながりもなく、教室内


 透明人間として、教師からも生徒からもあまり注目を浴びることはなかった。


 グループの比率は、第一グループが五、第二が三、第三が一、奇人が一といったところだった。


1983年頃のあんまり学力の高くない都立高校の昼休みだが良く描けていると思う。大槻ケンヂその


ままと思われる賢三は異端としての自分のアイデンティティの形成に苦慮している。高校あるいは


大学を出て成らなくてはならない自分、もしくは成りたい自分が数多くの第一グループとは根本的


に異なる存在であることを意識して自分とは違う主流のグループに対する対抗でアイデンティティを


獲得しようとしている。具体的には高校3年になる春休みのノイズ・バンド結成である。小説自体はど


うということないが、昼休みに主人公が自分を含めてクラスメートをカテゴライズしていく様は青年期


独特の心理ではないかと思われる。


 青年期は、境界的・移行的な境遇にあり、自分というものがいったい何であるかという自己アイデンティ


ティがはっきりしなくなることが多い、このために、この年代はまた自分たちと同質なもの異質なものと


いう区別に敏感で、少しの差異や特徴で仲間を差別したり疎外したりすることがある。良かれ悪しかれ


異質なものをかぎ分ける感覚には残酷なまでに敏感なものがある。


僕のような歳になって今更、青年期の心理が直截の問題であるはずもないが読んでいて面白かった。


確かに困難な時期ではあるが、この本にも書いてあるように大半の人間はおおらかに楽しく青年期を


過ごしていく。病理を知ることも大切だがそれですべて解決できるわけでもないと思う。


この本を読んで、青年期が近代の形成されたものということが分ってよかった。