テオレマ | やるせない読書日記

やるせない読書日記

書評を中心に映画・音楽評・散歩などの身辺雑記
礼儀の無いコメントは控えてください。そのようなコメントは
削除します。ご了承ください。

昨日、DVDでテオレマを久しぶりに観た。なかなか面白かった。(と言っても007ほどじゃないが)色々な


ことを調べてパゾリーニのことを書こうと思ったが、自分の能力ではそんなこと無理だというのが分ったの


で感想というレベルで書いてみましょう。ネタ本として「パゾリーニ・ルネサンス」「現代詩手帳  パゾリー


ニ」その他を使っています。パゾリーニ(1922-1975)の映画と製作年月日は以下の通りである。


  1961(39歳) 「アッカトーネ」

 

  1962(40歳)「マンマ・ローマ」


  1963(41歳)「リコッタ」


  1964(42歳)「奇跡の丘」


  1965(43歳)「大きな鳥と小さな鳥」


  1967(45歳)「月から見た地球」「雲って何?」「造化の情景」「アポロンの地獄」


  1968(46歳)「テオレマ」


  1969(47歳)「豚小屋」


  1970(48歳)「王女メディア」


  1971(49歳)「デカメロン」


  1972(50歳)「カンタベリー物語」


  1974(52歳)「アラビアンナイト」


  1975(53歳)「ソドムの市」


その他にもドキュメンタリーの短編も撮っており非常に多作であるといえる。映画以外にも評論、詩、小説と


これも旺盛な活動をしている。パゾリーニの映画の作法・テーマなどは後で詳しく書きたいと思いますが、パ


ゾリーニの手法の一つに映画を演劇の延長とは考えないところがある。極端な話、自分で決めた構図と自分


の考えた台詞を喋ってくれれば演技なんかどうでもいいのである。マリア・カラスでもアンナ・マニャーニでも


単なる素材ということでは素人と同じなのである。この方法が当たる時(「奇跡の丘」「マンマ・ローマ」など)も


あれば飽きられてしまこともある。訓練されていない人間の動きは流石にきれいではなく「生の三部作」など


はどうにも手のうちが見えてきて面白くなかった。もっと年に一本づつ映画を作っていくのだから拙速といわれて


も仕方がない作品もある。「豚小屋」「王女メディアなどどう見ても失敗だと思う。「豚小屋」は主題があんまり簡単


すぎるようだったし、「王女メディア」は映像自体チャチで適当にロケハンして、二三回カメラを回してそれで終わり


のような感じだった。マリア・カラスも素材として良く撮れていない印象だった。自分でも失敗だと言っている「生


の三部作」特に「アラビアンナイト」はトンデモ映画の部類といってもおかしくない。もっとパゾリーニはそんな


世間の評価はたいして気にしていないだろうが。反対に様式的に完成されている作品は何かと言えば「ソド


ムの市」だろう。さすがパゾリーニ、サドのシンメトリーな構成をよく理解している。もっとも僕はこの映画は


もう見たくないが。さて「テオレマ」であるが、主要登場人物がちゃんとした俳優で占められていて表情、動きと


もに訓練された演技が行われ観客としては抵抗なく画面に入っていける。パゾリーニの映画の中で一番美しい


と思われる色彩。多分、秋だと思われるミラノ郊外の霞がかかった風景、芝生の緑、ブルジョワジーによって


解放された工場、突然インサートされる荒野、女中エミリアが帰る故郷の貧しい村の土壁。これらが演劇的で


はなく詩的な感興によって映し出されていくわけだ。有名な映画なので筋書きは知られていると思うが、極めて


簡単である。あるブルジョワの家庭がある。父と母、兄と妹、そして女中の五人。ある日、メッセンジャーボーイ


(アンジェロ、むろん天使である)が電報を届ける。明日着く。若い男が訪れる、パゾリーニの定義によればエホヴァ


の使者。男は家族全員と性的関係を結び、同じように電報が来て去っていく。その後、家族全員に破滅が訪れる。


母親は色情狂になり街に出て男を漁る。娘は失語症になり片手を握ったまま硬直して病院送りになる。兄は男を失


った欠乏を絵を書くことによって埋めようとするが果たせない。父親は自分の工場を労働者に譲り渡しあろうことか駅


で全裸になり去っていた男に似た若い男に声をかける。ラストシーンは荒野を全裸で父親が歩きながら絶叫している


場面で終わる。ブルジョワの家族は崩壊するが、女中は聖女になる。一番、貧しい階層の者が破滅ではなく聖性を


得るというカタルシスが心地よい寓意になっている。ただそれだけであるが、パゾリーニの詩情が見事に映像化


されている。僕はこの映画をはじめてみたのは高校生の時だった。まだ政治的解放による人間の絶対自由の


の可能性がわずかにでも信じられていた時代だった。のっけからのブルジョワジーによる工場を労働者に譲り渡


す行為、旧約聖書的な神であるテレンス・スタンプが読む「ランボー詩集」。などに打ちのめされたが一番、驚いた


のは女中が故郷に帰り、疱瘡にかかった子供を癒し、いらくさを食べて頭が緑色になり、聖性を獲得し空中に浮遊


する場面で、大きな場面で見るこの奇跡は本当に現在、イタリアの片田舎で行われたことのような映像だった。僕


の目は今のように老眼が始まっておらずクリアーな視界のなかで社会主義革命と同等の昂揚をもった奇跡が行わ


れていたのだ。


昔、パゾリーニはマルクス主義者(イタリア共産党に入党していた)なのにカソリックの影響を受けていると物議をか


もしたことがあるが、結局、ただ単にヨーロッパの人の思惟の奥底に染み付いたキリスト教の文化が好きだったの


だと思う。ただ単純に聖者、地獄、奇跡、天使、キリストといったものが好きだったのだけだ。そして「テオレマ」の


発想は旧約聖書的世界から啓示を受けていると思う。人間と同等の神、苛酷な荒野、一人だけ救済されるエミリア


は多分、エミリア記にちなんでいるのだろう。


その他にシルバーナ・マンガーノがブルジョワの妻の役で出演しているが、これが美しい。であるが、ヴィスコンティ


の映画に描かれたシルバーナ・マンガーナのほうがより一層美しく僕には思える。そうだ忘れてはいけない、パゾリー


ニの母が、エミリアが工事現場で土砂に埋められてその涙が泉になるとき付き添っている老婆役で出演している。とん


でもない息子をもった母親は大変だ。ある時は聖母マリアになってキリストの磔刑に立ち会わなければならず、ある時


は聖女を工事現場の溝の中に埋めなくてはならないのだ。父親が駅で若い男を漁るシーンがありこれも秀逸なシーン


であるが、あきらかに若い男は素人であり役者である父親とはリズムが違う。ヴィスコンティであったら素材としてその


野卑な若い男を使った場合、自分の映画のリズムに合うように素材、もしくは映画自体を徹底的に変容させると思うが


我がパゾリーニはそういうところにはまるで無関心である。それが変調として成功する場合もあれば失敗して観客が


しらける時もある。そういうところに無頓着なのがパゾリーニであるとも言える。