サド侯爵   その生涯と作品の研究 | やるせない読書日記

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澁澤龍彦の「サド侯爵の生涯」の定本となっている本で1967年に刊行された。ジルベール・レリーが


どういう人か巻末の解説をみても書いていないので分らないが、この本以前にも1952年、1957年


に全二巻1200頁あまりの大著「サド伝」の著者でもあるらしい。澁澤の「サド侯爵の生涯」が剽窃と


いえるほど影響を受けているという説もあったが読んでみるとそうでもない。貞淑な妻、ルネ夫人に


焦点をあてたのは澁澤のオリジナルな見方であるし双方ともフロイトを援用しているが少しくアプロ


ーチの方法が違う。翻訳が澁澤であるので澁澤の文中に本書とそっくりな文章を見かけることがある。


それはまあしょうがない事であるが。


ジルベール・レリーの一番の功績は徹底した実証主義により裁判記録を精査しサドが実際に起こした


事件の大半が金銭契約に基づいた娼婦とのいざこざであり妻を毒殺したり女を解剖したりといった風


聞によって形成されたサドを否定し「かって存在しえた最も自由な精神」(アポリーネルの言葉)の文学


者サドを称揚している。サドは自分の生来的なサディズムという性癖により文学を形成していくが、そ


の過程が澁澤の言うように快楽の追求ではなく性を論理的に追求することによって自らも考えつか


なかった地平まで到達してしまったと言える。実生活でのサドは有罪でもなんでもないがサドの文


学はある見地(それがどういうものか僕には説明できないが)に立てば未来永劫、人類あるかぎり


有罪に処せられるだろう。


この本で一番興味深かったのは下記の言説である。


 周知のごとく、精神分析の要石は、小児におけるエロティシズムの先在の観念である。フロイト


 は、小児の最初の性的感覚が、リビドーの決定的な性質を支配し規定しこのリビドーの抑圧


 が、社会的あるいは倫理的な禁止の影響のもとに、成人した人間の心的平衡を多かれ少なか


 れ大きく狂わせるものであるということを証明した。さて十八世紀の末にサド侯爵は何と言って


 いたろう。


 「母親の胎内で諸器官が形成されるとともに、それらの諸器官によって私たちはあれこれの


  気まぐれな欲望を感じえるようになる。目にする最初の対象が、耳にする最初の談話が、


  それらの諸器官の活動を最終的に決定する。かくて各人の嗜好がひとたび形づくられて


  しまえば、もう何物によっても破壊されることがない。」と。


 またフロイトの観察によれば、小児は近親相姦およびサディズムへの自然の傾向を示す


 という。これについて、侯爵は何と言っているだろうか


 「自然は幼い子供に、その犯したいという欲望を吹き込む。子供はそれが悪いことだとは


  少しも思わずに、これを実行するのである。無垢と自然の胸中に芽生えたおそるべき


  邪性である。子供はその妹を楽しむ、今度は彼女を打ったりくるしましたりする」



それから多分、牢獄に入れられたサドの小説が団鬼六のような真っ当な(?)加虐趣味の人間


が書いたものが単なる自涜小説(ズリネタのための小説)にしか過ぎないないのにとんでもない


ものに昇華していったのは、サドの性癖の社会性(集団で交わるのを好む。)サディストにして


マゾヒスト(自分も打たれるのを好む)同性愛も許容し(女と交わっている自分が交尾される


のを好む)スカトロ愛好といった。変態の複合性、社会性(?)が単なる個人的な快楽から乖離


していき性を論理的なものとして捕らえる機運になったのではないか。


ふと気づくとこんな気持ちの悪い小説をなんで一生懸命読んでいるのか不思議に思うことがある。