29年前被災した後の思い出 | 自分に正直に生きていこう

自分に正直に生きていこう

紆余曲折ありましたが、バレエの講師をしています。
日々感じたことをカッコつけず正直に、日記として残そうと思って書いているブログです。

昨日は実家に行ってたんだけど

(先週は色々あって3回も行ったっけショボーン

一緒にテレビを見ていて能登地震の被災者の方々の事を放送していた時、母がポツリポツリと思い出した事を語り始めたのでその内容も一緒に書き残しておく





一昨日1月17日は阪神・淡路大震災の日でした


29年前のあの日

私達は実家に居て被災しました







写真、擁壁が壊れ、勝手口の木製の大きな戸が内側に倒れてしまってる

実家は有名な高速道路が横倒しに倒れたあの辺り







前に書いているのであの日の事はもう書かないけど、あの後の事を忘れる前に残しておこうと思う






あの時、沢山の人々の善意で生活出来たんだったなあ。と思って

感謝の気持ちで記録を残す






あの地震では私の実家も被災し半壊だったけど倒壊はせずに済み、電気もその日の午前中に復旧したので他所へ避難はしなかった


水はありがたいことに近所の数件の人が皆にご自分の庭の井戸を貸して下さった

この辺の分譲地は元々は大正〜昭和初期なので井戸がある家がたくさんあるのです、うちはそれを分割した後に建った家だから井戸はない

その水をバケツで運んでとりあえずトイレは使えた


2ヶ月の赤ちゃんだった次女もその水を沸かしてベビーバスでお風呂に入れられ、続いて1歳10ヶ月だった長女も入り、大人もその沐浴剤入りのお湯とタオルで身体を吹いたんだった



右端、兄貴だ  若!


その井戸水で洗濯することができた

通りすがりの方に洗濯機を使って良いですよ。の張り紙をしてたらたくさんの方が家に使いにこられ、

そのうち兄の友達がそれを見かねて家に使ってなかった洗濯機があったのでそれを貸してくださり、ガレージに設置して皆にどうぞお使いくださいって



それから飲み水!これもすごく助かったのだった

これも近所の幼なじみの家の親御さんが、自分の会社が大阪から大きな大きな透明衣装ケースに綺麗な水道水を貯めて沢山沢山運んでくれたんだけどお宅は赤ちゃんが里帰りしてたからミルクに使ってくださいって言って分けてくださったんだった


逆に母は、避難所の市民センターによくお弁当を貰いに自転車で行ってたのだけどそれをたくさん貰ってきては、向かいのマンションの小さい子供さんの居る家庭に届けたり、(余震の続く中子供を置いてはなかなか出られないだろうから)して感謝されたり、


ある時たまたま通りすがりの人が重い水を手で苦労して運んでいるのを見かねて、自転車で運んであげたらそれ以後5年くらい年末になるとお返しのモノを送ってくださって却って恐縮したりとか



ガソリン!

道も何とか開通し始めた1週間が経った頃私達3人も高槻の官舎に帰る事にしたんだけど赤ちゃん連れで荷物も多いという事で車で移動したかった

けどなかなかガソリンが手に入らなかった


そしたらこれまた近所の知り合いのガソリンスタンドを経営してる方が、昼間は復興支援の関係車両にしか入れられないけど、夜に来たら特別に開けとくから入れさせてあげるよ。と言われて兄が入れに行ってくれ、

夜、兄の運転で母も一緒に乗って、停電地区で倒壊の酷い惨状の怖い真っ暗なガタガタの道を通り抜け送ってくれたんだった




旦那も最初の土日に来てくれたんだけど、その時JRが甲子園口駅までは動くようになってたのでそこまでは電車で、

駅からは徒歩で線路の上を歩いて、登山用の大きなリュックに水やカセットコンロ、などを詰め持ってきてくれた

その時市販の解熱鎮痛剤や胃腸薬のような薬もたくさんもってきてくれていて、私達は要らないけど避難所の中では必要としてる人達がいるという事で市役所へ直接寄付しに行ったら、後で芦屋市役所から感謝状が送られてきたそうだ



最後にガスが復旧したのは春だったから実家ではそれまで大変だったけど、住民同士で助け合って生活したらしいから悪いことばかりじゃない


今でもご近所との付き合いは深いそうだから



線路の高架も倒壊


神社も被災


伊丹駅だったと記憶してる

この駅、旦那の同僚がキオスクで買い物おばちゃんと会話して数分後に地震
振り返ったらこの惨状だったそう
正気を保てたことが不思議なくらいの出来事




写真は全て亡き父が自転車であちこち行って記録として撮ったものです