永世七冠、国民栄誉賞で、至る所に改めて羽生さんのプロフィールが紹介されている。
それで「終盤、決め手を指す時に手が震える」という、ここ数年羽生さんのトレードマークになっている特徴が一般にも少し知られるようになった。
若い頃にはそんなことは無かったが、40歳に差し掛かかる頃から確かに羽生さんの手は震えるようになった。
勿論、いつも震えている訳ではない。
タイトル戦や決勝などの大勝負、形勢不明の競り合いが続く最終盤、その中で勝ち筋が見えた時だけ羽生さんの右手は震える。
「ひくっ」と小さく震える時もあれば、ブルブルと震えて近くのマス目の駒を弾き飛ばすこともある。
左手で右手を押さえなければ駒がマス目に置けないこともあった。
手を「震わせている」訳ではないので、羽生さん自身にもはっきりした理由は分からない。
「強いプレッシャーを感じている証拠だ」
「勝利を確信した武者震いのようなものだ」
盤側では様々な憶測が飛び交うが、何が真実なのかは誰にも分からない。
ただ、いつの間にか「手が震えたら羽生の勝ち」というのは将棋界の「定跡」となり、皮肉にも盤を挟んだ対戦相手が、毎回その「定跡」の目撃者兼被害者になっている。
今回の竜王戦、第4局、雪の「嵐渓荘」での対局は忘れられない名局となった。
当然だが、1月前に僕が夕食と朝食を摂ったその部屋が、対局場だったという事を差し引いてもだ。
「6六飛」と危うく逃げて、「8八金」と重く打ち、桂を取る間に角も飛車も取らせるという一見無筋な寄せは、解説のプロが誰も予想できなかった「6八飛」という鮮やかな収束へと続いていた。
一度は「(渡辺竜王が)逆転したんじゃない?」と言っていた深浦九段は、「これを読んでいたのか。感動しました。」と漏らした。
現地で観戦した梅田望夫さんは、その興奮を観戦記として読売新聞に寄せた。
話題の藤井聡太四段は、その1局を「今期竜王戦の白眉」とコメントした。
指宿での第5局で竜王復位を果たした羽生さんは、直後の記者会見で、今期最も印象深い一手に「6六飛」の局面を挙げた。
初めてタイトル戦の舞台になった「嵐渓荘」は、たった一局で『名局の宿』になった。
羽生さんの手が震えるようになった時から、僕はそのメカニズムをこう考えている。
羽生さん自身も語ったことがあるが、将棋や囲碁の限りなく深遠な世界は度々「宇宙」に譬えられる。
プロ棋士の読みは我々には想像のつかない広さと深さだ。
そのプロ棋士の中にあっても、羽生さんの読みは群を抜く。
長年のライバルの一人である佐藤康光会長は、永世七冠のお祝いコメントで「羽生さんの読みは我々とはひとつ違う次元だ」と言った。
将棋の終盤、羽生さんが旅をする宇宙は途方もなく広く遠い。
他の飛行士が誰も行かない星雲、見たことのない新星、いくつもの太陽、或いはブラックホールまで。
その中で羽生さんは勝利へ続く一筋の光を探す。
そしてそれを見つけた時、記録係の声が耳に届く。
「羽生先生、残り10分です。」
強烈な引力で羽生さんは地球に引き戻される。
頭の中の果てしない宇宙から、目の前の将棋盤という地球へ。
猛烈なスピードで大気圏を抜ける時、激しい空気抵抗で羽生さんの手は震える。
宇宙で見つけた勝利への道筋を手放さないよう、羽生さんは震える手に握った駒を盤に着陸させる。
「嵐渓荘」の「石楠花の間」、床の間を背にして僕はそんなことを夢想していた。