ちまたの若者(?)の間では、嫌韓、嫌中などが流行っているらしい。
福沢諭吉の「脱亜論」に、短絡的に感化されたのかもしれない。
が、そもそも排他的な思想は、日本の伝統的文化とは真逆の大陸的な思想であることは間違いないらしい。
戦後、西洋かぶれの自称有識者やメディアの大罪は、日本古来の伝統を排して、合理的システムとして自己主張を唱え、謝罪しない態度を善しとする風潮を蔓延させた点にあるという指摘もある。
遠く、USのテキサス州にトニー・マラーノ(Tony Marano)というおっさんがいる。
日本で言えば、団塊の世代にあたるらしい。
このおっさん、通称テキサス親父として有名になり、いつの間にか怪しい日本のサイトまでできている。
有名になる何年も前から、Youtubeで「日本大好き」の動画を流しているのを見て驚き、嬉しくなったことを覚えている。
特に、このおっさんが熱烈な日本ファンになった理由が注目に値する。
かつて第二次大戦で敵国だった日本の「気配りの文化」を知り、憎しみが薄れ、逆に日本という気配りの国に惹かれていったという。
残念なことに、その気配りの文化が、近頃、次第に失われつつある光景を目にすることが少なくないのも事実である。安倍内閣の原発推進、憲法改正などはその典型例だろう。
日本では、サンキューの意味で「すみません」という言葉遣いがふつうに使われる。
他家を訪問するときも、「すみません」とか「ごめんください」。
席を譲ってもらった時も、贈り物を頂いた時も「「すみません」。
個人的には、この「すみません」という
角川字源によれば、「感謝」の「謝」は、「主君の命令や言葉を伝える」というのが元の意味らしい。
転じて、「礼を言う」「わびる」という意味で使われるようになったという。
戦国乱世では、「謝」の使い方一つで命を失ったり、国を失ったりすることもあったのだろうという。
とすれば、日本人の「すみません」という言葉に、「お礼」と「お詫び」の両方の意味があってもおかしくない。
日本は「謝りの文化」「わびの文化」引いては「自虐の文化」という専門家の話を聞いたことがある。
が、説得力にかける。
つまりは、相手の好意に対する「お礼」だけではなく、気遣いをさせてしまったことへの「お詫び」を同時に表した言葉が、「すみません」であり、「忝(カタジケ)ない」であると考えるのが、自然な気がする。
相手への気配りこそが、誇れる日本独特の文化だとすれば、嫌韓、嫌中などは論外だろう。
武術の達人から聞いたことがある。
「イヤな相手ほどできるだけ親しくしつつ、研究する。そして敵を作らないことが上策。」
「自ら敵を増やすほど愚かな行為はない。」
この金言からしても、下の武田教授の指摘は、実にまっとうな意見のように思われる。
日本独自の「気配りの文化」の真髄が、ここにあるような気がするのでした。
『日本は民主主義なのに「自分が正しい主義」が蔓延したのか?
「2014032712421242.mp3」をダウンロード
「正しいとは何か?」というタイトルの本を小学館から出してしばらくしたときに、ある人から「先生の書いた本を見たとき、正しいって決まっているのに何が書いてあるんだろう?」と思ったといわれました。
確かに、今の日本は正反対のことを同時に言うという病的状態にあります。つまり多くの人が「これは正しい!」、「間違っている!」と自信たっぷりに言って、他人をバッシングしたかと思うと、「他人を尊重する教育」とか「多様性が大切」などと書いたりします。
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最近、街を歩いていたらすれ違いざまに「タバコを吸っても良いなんで、いい加減なことを言うなっ!」と私を罵倒した人がいます。私はすぐその人のところにいって、「あなたも紳士なら紳士らしく、キチンと話をしてください。私も私なりの根拠をもっていっています」と言いました。
まさか、追っかけてくるとは思っていなかったのでしょう。その人はびっくりした顔で「先を急ぐから」と言われました。そこで私が「そちらの方から言ってきたのですから、私が反論するぐらいは認めないといけない」と言いますと、
相手「すみません。私が不十分でした。本当に先を急ぐので」、
武田「わかりました。でも、紳士的にやってくださいね」
で終わりました。
これが発展すると、その人が憲兵になり、シベリア送りになるというが歴史の教えることです。私は「日本はあかるい民主主義」を希望しています。それは一人一人が日本人としての誇りを持ち、誠実で礼儀正しく、他人を尊重し、堂々と名を名乗り、謙虚に自分の考えを言うという社会です。
(平成26年3月27日)
武田邦彦
(C)武田邦彦 (中部大学) 引用はご自由にどうぞ
』(武田教授のブログ)
http://takedanet.com/2014/03/post_b891.html