PFM - La Carrozza di Hans
(2002年5月12日の来日公演より)
PFM(プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ)のファースト・アルバム『Storia di un minuto』から、邦題「ハンスの馬車」です。この曲で産声をあげたとも言えるPFMの瑞々しいまでの若々しさは、2002年においても全く失われていません。デビュー時のPFMがキング・クリムゾンとジェスロ・タルに大きく触発されていた事が分かる1曲です。
2002年5月の8日か9日(どちらか忘れました・・・思い出せません)のブルーノート大阪でのPFM再来日の初日か2日目の夜の公演で、私は最前列のほぼ真ん中の席でこの演奏を体感できました。立ち上がって手を伸ばせばステージ上のメンバーに触れられるかと思うほどの至近距離で(フランコ・ムシーダまで2~3メートルくらいで、フラヴィオ・プレモリのキーボード機材の足元ならホントに手で触れるくらい)。
「ハンスの馬車」は大阪公演でも川崎公演でもセットリストの1曲目ですね。フランツ・ディ・チョッチョがこの曲を評して「刺激的(な曲)だ。「グランプリ」で走っているようで、凄いスピード感だ。数秒で0から100に加速するように、アドレナリンが上がる。」と言っています。私はPFM再来日の最初のこの1曲で、もう失神してしまうかと思うくらいに興奮の極地でした。
P.F.M (Premiata Forneria Marconi) in La carrozza di Hans dal vivo
1971年のPFM。5人全員が凄いけれど、マウロ・パガーニ(ヴァイオリン、フルート、ヴォーカル)の才気と存在感が圧倒的です。
『Storia di un minute(邦題・幻想物語)』 (1972年)
直筆サイン
(右上)フランコ・ムシーダ
(右下)フラヴィオ・プレモリ
(左下)パトリック・ジヴァス
今からちょうど20年前になりますね。2002年5月にイタリアを代表するプログレッシヴ・ロックバンドであるPFMが再来日しました。初来日は1975年だったので27年ぶりの来日でした。イタリア時間で5月6日午後2時にミラノの空港入りし、関西国際空港にPFMのメンバーが降り立ったのが5月6日午後2時(日本時間)。公演日は9日と10日がブルーノート大阪で、11日12日13日がクラブチッタ川崎です。大阪と川崎における5日連続で休みなしのコンサートは、プログレファンにとっては「最高・最上・至高」の本当のゴールデンウィークになりました。
PFMのあの再来日から20年が経ったのか・・・・・と、先月に気付きました。なんだか、つい最近の事のように思ってしまいます。10年は「ひと昔」、ならば、20年は「ふた昔」とでも言うのかな。
(コトバンクより)
十年一昔
世の中は十年ぐらいで大きく変わり、十年前となると昔のことになる。人の一生も社会の変化も十年ぐらいで一区切りになる。
出典 ことわざを知る辞典
すっかり時間の感覚に無頓着になって、この10年でならガラケーがスマホに変わったくらいしか時の流れを確認できない私。50年も昔のイエスやらプログレやらの事を2022年に「あーだこーだ」言ってる私たち。でも、だからこそ2002年のPFMの来日公演は、「最近の出来事」だと、あえて胸を張って言い切ろうと思います(笑)
PFMが来日するらしい、、という知らせをどこから聞いたのか思い出せません。2002年当時の私はランニング・マラソン大会への参加を始めてちょうど2年が経過した頃で、参加した大会で何度か自己ベストを更新したりして走ることに夢中になっていました。ただ、関西の外(中部地方や中国・四国など)の大会に参加する時には行き返りの車の中でずっと音楽を聴いていて、初めて訪れる土地への往路と帰路で色々と選曲をする事にも夢中になりかけていました。30歳代半ばの当時になって、ようやく10代の頃によく聴いていた「プログレ」周辺を客観的に聴けるようになっていた時期で、特に無意識的にイエスの楽曲をよく選曲している事に気付いた時には、「いま自分は『イエス再入門』を果たしたいんだな」と自覚し始めていた頃でした。
そんな時期にPFMが日本に来るという知らせが。マーキー(など)はもう買っていなかったし、かつての音楽仲間ともあまり交流をしていなかったし、当時はパソコンを所有していなかったので、ひょっとしたら自宅の「毎日新聞」の広告で知ったような気もします。(「チケットぴあ」とかの情報誌かなあ)
PFMのメンバーが2002年5月に何歳だったか、再来日する前に調べていました。
(記載は『クック・ライヴ』(1974年)のライナーノーツを参照)
◇フラヴィオ・プレモリ(キーボード・ヴォーカル)
1949年生まれ
53歳(他のメンバーよりも少し若いのは、イエスのリック・ウェイクマンと似ています)
(シャープペンで 25 40 と薄く書いているのは、「クック・ライヴ」1974年当時の年齢と、これを書いたリアルタイム1989年の各メンバーの年齢です。当時の年齢と現在の年齢。私は気にする性質のようです。)
◇フランコ・ムシーダ(ギター・ヴォーカル)
1947年3月21日生まれ
55歳(サインと握手をしてもらった時のムシーダが今の自分と同じ年齢な事に胸熱です。)
◇パトリック・ジヴァス(ベース)
1947年3月23日(ムシーダが生まれた2日後にパトリックが生誕! AREAからPFMへの移籍に運命を感じます。)
55歳
◇フランツ・ディ・チョッチョ(ドラムス・ヴォーカル)
?歳
当時は年齢公表NGだったのかな? リーダー格で貫禄あるから、少なくとも50代後半???(と当時は思っていました)
※ちなみにイタリア語ウィキペディアを見てみたら、1946年1月21日生まれとあったので、2002年5月には56歳でした。最年長です。
2002年再来日メンバーではないけれど
◇マウロ・パガーニ(ヴァイオリン・フルート・ヴォーカル)
1946年2月5日
56歳
53~56歳のあいだに主要メンバーの年齢が収まりますね。今の私の年齢もこの範囲内です。20年前の来日公演DVDを鑑賞する時は、今の自分の年齢のPFMのメンバーが演奏しているんだと意識して観てみます。今の自分がまるで一緒にステージに上がっているかのように。ほぼギターしか弾けないので、ムシーダ様とツイン・ギター??? 恐れ多い・・・!
ムシーダ様と同席できるのならビリー・シャーウッドにでも、ルドルフ・シェンカーにでもなります。ライヴで「錯乱の扉」のバッキングでジャカジャカ弾いてるジョン・アンダーソンにでも!(あれ、うるさいですよね・・・)
当然の事ですが、この年齢に20を足した年齢が、2022年5月現在のPFMのメンバーの年齢です。フランツとマウロは76歳ですね。(ちなみにジョン・アンダーソンは77歳。スティーヴ・ハウは75歳です。ほぼ同世代ですね。)
サイン会で描いてもらったコンサート・パンフの4人のサイン
2年前の当ブログでも書いたのですが、ブルーノート大阪での公演は、昼夜交代制だった事もあって演奏時間が短く、正味1時間ちょっとくらいでした。主要曲は押さえた選曲でしたけれど、ライヴDVDで観れるようなピアノソロなどは無かったと記憶しています。(ウィリアム・テル序曲とその前のギタージャムも無かったかも)
ただ、演奏後のサイン会はたっぷりと時間がありました。大阪公演は!
私は所有しているPFMのアナログ・レコード・ジャケット8枚(中身のレコードは自宅で待機)を、ブルーノート大阪の最前列の(私が座った)テーブルに並べて、ほんの2~3メートル手前で演奏しているフランコやフランツ(歌っているとき)にも見えるようにしていました(恥)。
特に陽気で気さくなフランコ・ムシーダは何度かアイコンタクトをしてくださったり、公演後のサイン会でもずっと笑顔でイタリア語か英語で何かを話しかけてくださいました(私は何とかの一つ覚えみたいに「サンキュー」「グラッチェ」の連呼しかできませんでした。というか、舞い上がっていました・・・)。
◇関連記事
パンフから
パンフの中の写真では、これが一番好きですね。どんな真剣な音楽談議が交わされているのか。それとも、どんな男同士の○○○な会話が飛び交っているのか・・・
パンフから
白いペンで描かれたメンバーのサインは、パンフに印刷されたものです。このサインを参考にして、自分が貰ったサインが誰が描いてくれたものなのかを判別しました。
PFM - Rain Birth/River of Life
来日公演の2曲目はセカンド・アルバム『Per un amico』の英語盤(プラス2曲)『Photos of Ghosts』から、邦題「人生は川のようなもの」です。「セレブレイション」の次か、並ぶくらいにPFMを代表する知名度と完成度を誇る楽曲です。50代半ばの良い意味で抑制された円熟味ある演奏と、しなやかな中にも漂うイタリアの風情が良いバランスで2002年という時期に結実しています。そういえばイエスもライヴ映像作品としては、最後の充実作とも言える『シンフォニック・ライヴ』のコンサートを実施したのが2001年でした。
『Per un amico(邦題・友よ)』(1972年)
プレモリにサインをしてもらいました!
サイン会の列で自分の順番が来たときに、購入したパンフにメンバー4人のサインをしてもらって、さらに同時にレコードにもサインをしてもらおうと咄嗟に出したのが、8枚持参したPFMのレコード・ジャケットのうち「ファースト」「セカンド」「サード」アルバムの順でした。リリース順に並べて持っていた事と、「チョコレート・キングス」以降のよりは名盤・代表作とされる初期3作にやはりサインをしてもらいたいと思いました。
サインの列に並んでいる後ろの人の事と、(雰囲気的な)制限時間の事もあるけれど、「ファースト」にはムシーダ、プレモリ、パトリックの3人がサインしてくださいました、さらに「セカンド」アルバムでの演奏に自負のあるプレモリが「セカンド」にもペンを走らせてくれたのが嬉しかったです。ちなみにムシーダは「サード」にもサインしてくれました。
(1989年にアトールが来日した時は「サード」「ロック・パズル」の2枚にサインをもらいました。70年代のメンバーがギタリストのクリスチャン・ベーヤ1人だけだったというのもあるけれど、アトールは「ファースト」と「夢魔」の2枚は「絵画」としてもあのまま持っておきたかったので。)
逆向きで拡大
咄嗟にレコードを3枚も差し出したので、「セカンド」は上下が逆になりました・・・。オルガンからモーグに手を伸ばすように、早業で描いてくださったプレモリ様の妙技ですね(^^
素晴らしい内ジャケ
この内ジャケが本当に大好きでした(もちろん今も)。セカンド・アルバムのこのイタリア盤を買ったのは私が20歳の頃でした。中学生の時に友人の家で英語版の『幻の映像』を聴かせてもらった時には、「おおー、イタリアにこんな凄い音楽を作る人たちがいるのか!」と、ふつーに感激したけれど、このイタリア盤は音楽の内容も遥かに素晴らしいのと同様に、内ジャケを開いた時の身震いするような感激はそうそう体験できるものではなかったです。(VDGG『PAWN HEARTS』と双璧な内ジャケ)
暗く、狭い場所に「ひしめき」「凝縮して」いる何ものかを捕らえた臨場感のある内ジャケです。本当に凄まじいものが生まれ出す「場所」とは、こういう「場所」だと視覚的に一瞬にして圧倒されました。イタリアの宗教画、例えば構図は違うけれども「最後の晩餐」のような凄みすら感じます。
PFM - Dolcissima Maria
サード・アルバム『L'isola di niente』から、邦題「ドルチッシマ・マリア(通りすぎる人々)」です。
『The World Became the World(邦題・甦る世界)』 (1974) ※『L'isola di niente』の英語盤
フランコ・ムシーダがサインしてくださいました。『サード』にムシーダのサイン!というのが個人的に嬉しかった(^^
(8枚もレコード・ジャケットを持参して会場と帰路の電車とかでサインが擦れたのが、ちょっと・・・残念。あわよくば8枚全部にサインを貰おうとした欲深い自分)
ヌメロ・ウーノではなく、マンティコアです(^^
PFMはセカンドも勿論凄いんだけれど、サードの方が色々と上回っている。やっぱりそう思ってしまいます。イエスに例えるという、いつものワンパターンで恐縮ですが、『危機』は聴くたびに感動するし、本当に素晴らしくも凄いんだけれど、『リレイヤー』の方が瞬間最大風速を記録していると思えるし、バンドの「ユニット」として強烈に「一丸になった音楽」を達成できている、という個人的な確信がPFMの『セカンド』と『サード』にも当てはまるように思います。(もちろん、この「違い」は個人の嗜好や趣向によって違ってきますけれども)
そんなPFMのサードにあって、イタリアらしくもフランコ・ムシーダらしい愛らしい小曲「ドルチッシマ・マリア(通りすぎる人々)」。大阪公演では省略されたと記憶していますが、川崎での演奏もDVDで観る事ができて、特に嬉しかった楽曲です。
弐千弐年 日本公演
2枚組ライヴCDの中に「弐千弐年 日本公演」と書かれているのが良いですね。DVDはコンサートの完全収録のようで非常に見応えがあります。来日から日本滞在中のドキュンタリー映像に、メンバーのインタビューを挟んだ特典映像が嬉しいです。ブルーノート大阪の開演前の列に並ぶ観客の列も映っていました。私は、映っていませんでした、、と書きかけて再確認してみたら・・・。当時35歳だった私と結構似ている人が列の中にいました。あの服、あの表情、、あれ? これって自分? それとも「幻の映像」???(本当に自分は自分のはずなのに判別がつかない)
PFMが20年前に大阪に再来日した5月6日にて
つづく
◇追記
久しぶりの更新になりました
3月の中頃に「奈良まほろばソムリエ検定」という、奈良県のご当地検定を2年ぶりに受験しておりました(昨年度はコロナ渦で試験は中止)。2級と1級に合格してからは、最上位の「ソムリエ級」に何度か受験はしてみたけれども、かなり本格的に取り組まなければ合格レベルには到達できない試験だと思い知り、今年の受験は久しぶりに試験勉強というものにかかり切りになっていました。何かに本気で取り組むというのは手間も暇もかかるけれど、やっぱり楽しいものです。
試験が終わって4月頃には「イエス・アルバム・レビュー」の続きか、または「大河ドラマ・鎌倉殿の13人」関連(特に上総介広常のこと)を書きたいという意欲だけはありました。でも、音楽に例えると3分の曲を思いついたら、20分に膨らまして、80分という「完成形」にしたいという、どこかのバンドの問題作のような変な美意識(?)だけが先走って、文章の断片が断片のままで何一つ書き進められなかったような感じでした。
そんな時に、ここ10年、いや20年のあいだ音楽DVDを鑑賞する際には、10指か5指に入るくらいよく観たPFMの2002年の来日公演を観返していたら、、
ああ、20年たったんだ・・・
と、静かな衝撃を受けて本稿を書き始めました。20年なんて普通に考えたら長い年月です。個人的にもやっぱり色々とありました。ガラケーからスマホに変える以外にも(苦笑)
でも、20年も昔のライヴDVDを観ていても、「ああ、最近のコンサートや」と思ってしまう事もまた事実なんです。70年代のプログレが音楽の原体験になってしまっている人にとっては、イエスにトレヴァー・ラビンが加入した事も「最近のイエス」だったり、クリムゾンにエイドリアン・ブリューが加入した事も「最近のクリムゾン」になるのか?
それでいいのか?
進化こそが全てのプログレ精神(そんなのあるのか)に反するのではないか? という自問自答に、あえて「YES」という現状肯定で臨むのも、まあ「アリ」かなあと思いつつ、20年前の出来事を綴ってみました。
20年前は鮮明に憶えているのに、2ヶ月前が思い出せない、、
「忘れようとしても 思い出せない」
「これでいいのだ」
バカボンのパパ

















