pmkrhrのブログ

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日々の雑記。自分の過去を振り返るため用です。

当時は母ばかりが疾患持ちのように思っていたけれど

実は父もそうだったんじゃ。。と思うようになってきた。

 

もともと、日本酒ばかりを飲み食事を一切取らない人だった。

飲みすぎて足元がおぼつかなくなり、トイレに行く途中で玄関に転げ落ちることもあれば

間に合わなくて漏らすこともあった。

立ち上がったと同時に食卓にひっくり返ることもあった。

お酒が楽しくて飲むのではなく、眠るために飲んでいた。

なんでだろう。

眠れない理由があったんだろうか。

アルコール依存症も立派な精神障害。

 

そんな父を見ていたので酒を飲んで別人格を作り上げ

すべての責任を放棄しようとする人が嫌い。

それは今でも変わらない。

だから私はお酒を飲まない。

付き合いで飲むこともあるけれど、基本は飲まない。

 

そして、台所の脇にかかっていた小さな鏡に向かって会話をしていた母。

化粧中の鏡台でもそうだった。

何かを常に話していた。

話の内容はだいたいが愚痴のようだった。

何がそうさせていたんだろう。

 

二人とも「もう一人の自分」を作り上げないとならなかったのはどうしてだったんだろう。

正気を失わないといられないほど酒を飲む。

別人格に「お前らなんかいらない」と言わせないといられなかったのはどうして?

常に自分が正しくて、思い通りにならないとヒステリックになり

話にならない状況を作るのはなぜ?

そんなことは言っていない。知らない。覚えてない。

何度聞いたことだろう。

シラフの人間ばかりが傷つくのはなぜなんだろう。

 

父は、仕事を辞めてから2~3か月で亡くなった。

まるで自分の死が近づいているのを知っていたかのように

身辺整理をすべて終えたころ、長年の飲酒が元で急性膵炎で入院。

集中治療室に3週間いたあと亡くなった。

 

長引かせるわけでもなく、介護で回りの人間を疲弊させることもなく

3週間病院のお世話になってそのまま人生を終えた。

 

あれだけ家族に暴言を吐いてひどい傷を負わせた人でも

そんな綺麗な終わり方ができるなんて。

 

うらやましい終わり方だった。

どこかで徳を積んでいたのかな?

不思議だった。

 

 

インスタでたまたま流れてきた文言にハッとした。

「毒親」によって精神的に不安定だったと。

そうだった。当時私は家に帰ることが辛くて

人の家で仮眠をとってから帰宅したり、なるべく自宅にいる時間を

減らそうとしてたっけ。

 

思い通りにならないとすぐヒステリックになる支配的な母親、

つじつまが合わなくなるとすぐにそんなことは言った覚えがない、忘れたなどと逆切れ。

あ、それは両方ともだったかな。。

アルコールの力を借りて暴言を吐く父親。

シラフで聞いているほうはたまったもんじゃなかった。

おかげで、毎日のようにお酒を飲む人とは距離を置いている。

 

二人とも自分の言動に責任を持たないタイプだった。

なかったことにするのが得意だったんだと思う。

 

早く大人になりたいと願った小学生時代。

社会人になっても一人暮らしが許されることは無く、

結局結婚するまでは実家住まいだった。

 

すべてが悪い記憶ではないけれど、

人は「してもらった」ことよりも

「された」ことのほうが記憶に残りやすい。

精神世界にのめりこんだのは自分を救いたかったからだった。

 

父は亡くなり、母とは十数年疎遠となって

やっとあの二人の影響を受けないで生きている。

今は精神世界を必要としていない。

 

毒親もきっと毒親に育てられたんだと思う。

負の連鎖。

それに気づかない人たちが毒親となって、子孫をつなげているんだろう。

自己肯定感が低く、必要とされたいと思う私は立派な毒親育ちだ。

私も気づくのに遅かった一人。

 

息子に申し訳ないと。本当に思う。

親になってはいけない人間だったと、本当に思う。

本当に、ごめんなさい。

後悔先に立たずとはまさにこのこと。

 

息子と疎遠になっていることが結果だと思う。

 

 

去年の今頃、だいぶ精神的に落ち込んでいた。

やる気をなくし、もう何の光を見えなかった。

 

そして4月7日、拒否権のない辞令がおりた。

コールだって。

ああ、とうとうお払い箱になったんだ。と思った。

すぐに辞める覚悟がなかったので、とりあえずやるだけやってみよう。

なんて自分をごまかした。

結局苦手なものは苦手だからダメだった。

辞めるのがちょっとだけ延びただけだった。

 

去年の4月は本当にしんどかった。

薬を飲んでもどうにもならなかった。

冷や汗や動悸もハンパなかった。

恐ろしい4月だった。

 

去年の私、あの頃は大変だったね。

暗闇だったよね。 希望も夢のなんにもなかった。

お先真っ暗だった。

 

でもね、1年後のあなたは別の場所で楽しく働いているよ。

あんなワケのわからない女だらけの組織じゃなくて

落ち着いた人たちに囲まれて、ちゃんとした会社で正社員として働いている。

 

何かにすがるようにレジンで虹ばかり作っていたのは

小さな希望が欲しかったんだと思う。

なんで、あんなに虹ばっかり作ってたんだろう? 不思議。

 

 

 

 

 

20代のころ見た夢でいまだに覚えているものがあって。

 

お坊さんと囲炉裏を囲んでいて。

「覚」と大きく書かれた半紙を目の前に出されたことがあった。

 

当時は覚醒の覚?と思っていた。

何かに目覚める?と。

 

今日ふとその夢を思い出して一番に思ったのが

覚悟の覚だった。

 

ああ、そっか。覚悟の覚だったんだ。

 

何にしても何をするにも覚悟が必要。

私にはすべてにおいて覚悟が足りない。

だから、後々後悔することが多い。

 

覚悟はできているか?

責任を持てるか?

そう問われていたのかもしれない。

 

数十年経って、しっくりくる答えだった。

 

 

 

本日、とんぼ玉作り体験で浅草橋へ。

集合時間までだいぶあったので、近くを探索しようと思って歩いていたら

偶然、神社に出会いました。

ほんと・・たまたま右を向いたら・・あった。って感じで。

立派な鳥居を目にして、これはお邪魔しないと!と思い

吸い寄せられるようにお伺いしてきました。

 

ちょうど小雨も降っていて、空気が澄んでいて

心地の良い神社でした。

初めてお邪魔した神社でしたが、これからも浅草橋に行ったときは

ぜひ寄らせてください。

 

今ちょうど休職中で自宅から出る機会もほとんどなくて

猛暑も重なって、本来の出不精にますます拍車がかかり

今日の予定も含めいろんなことに憂鬱になってました。

 

そんなところ、2~3日前から急に頭痛と吐き気と悪寒に見舞われて

食事もとれなかったので、もう浅草橋まで体力持つかほんと自信がなかったのです。

今まで元気だったのに、急に具合悪くなるとか・・なんで?と。

ですが、ずいぶん前から決まっていた予定でしたのでキャンセルするわけにはいかんと。

暑いけど・・調子悪いけど・・勇気を振り絞って出かけました!

 

がんばって出かけてよかった。

ちなみにおみくじは・・大吉でした♡

 

とんぼ玉作りに誘ってくれたFさん、こんな私を呼んでくれた榊神社さま。

ありがとうございました。

このご縁に感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

初めて。
休職した・・・2週間・・・。
もう、どうにもならなかった。

薬の服用は抵抗があったけれど、仕方がない。
今は心の回復を優先しないと。

この年になると、過去に似たような人と再び出会ったりする。
あの時、うまく縁を結べなかったから?
再びチャンスがやってきているように思う。

そして、今一番思うのは、立場が逆転した状況がやってきていること。
あの頃、私は14歳上の人に相当失礼な態度をとってた。
自分が自分が!で、だいぶイキってたと思う。
相当きついことも言った。
あの頃の私は、仕事に対する熱量が半端なかったから。

その人が仕事を覚えてくれて、そつなくこなしてくれる頃には
だいぶ頼っていたと思う。大好きな人だった。

会社がなくなって、お互いに退職してからは
私からは連絡をすることはあっても、その人から来ることはなかった。
なんでだろう・・って思っていたけれど。。

そりゃそうだよね。
相手は傷しか残ってないんだから。
やられたほうは忘れない。
自分だけがお気楽だったんだとやっと気づいた。

自分が逆の立場になって、初めて、その人の気持ちがわかった。
因果応報。しっかり受け止めます。

Eさん、あの時は本当に申し訳ございませんでした。
お風呂に入っていた時にふと思い出したこと。

息子がまだ1歳にならない年に義姉夫婦、義母とともに旅行に連れて行ってもらったことがあった。
夏の頃、場所は忘れてしまったけど、避暑地のような緑いっぱいの場所だった。
正直、赤ん坊と一緒の旅行は荷物も多いし大変なことが多いから
乗り気じゃなかったのは覚えている。
宿もお風呂もそれほど問題もなかったのだけれど。。

帰りのにお土産を買おうとなった。
あの時、私の財布には2千円ぐらいしか入ってなかった。
こんなに心細い旅行は初めてだった。
もちろんお土産なんて買う余裕もなく、店の外で待っていたような気がする。
当時の旦那は義姉夫婦にいろいろ買ってもらっていたようだった。
外からその光景を見ていて、疎外感しかなかった。
寂しい旅行だった。

義母と同居だったあの頃、旦那の収入は義母が管理していたので
無職だった私は家計からお金をもらうことはできなかった。
実家からの援助と独身時代に貯めた貯金を切り崩しておむつや離乳食を買っていた。
2千円しか財布に入っていないのに行ってしまった旅行。
そもそも生活に余裕がある人が行くものなのに。

身の程知らずだった。
みじめで仕方がなかった。
悲しかった。
恥ずかしかった。

未だに消化しきれない感情の一つ。


7/1~ランクが一つ上がって
11/1~さらにもう一つランクが上がった・・・

気楽にやってられなくなった。
のんびりやってますなんて言えなくなった・・
今は不安しかない(笑)

最後のキャリアアップだと思うので一生懸命がんばる。
が経過しました。
55歳って区切りなんでしょうか。
前職までは野心があり、上に行くことが目標でしたが
そんなものは無く、ゆる~く穏やかにお仕事させてもらっています。

M部長が
「定年前の数年は恩返しの気持ちで働いている」
って言っていたことを思いました。
今までの経験や知識を今度は次の人たちに渡していく。
そのころはピンとこなかったけれど、今すごくわかります。

こんな穏やかな気持ちでM部長は日々過ごしていたんだろうか。
昇格や評価に追われる日々はやりがいもあったけれどプレッシャーも相当だった。
とがってたあの頃が嘘のようにスルリと削げ落ちた。
そんな感じ。



お悩み相談のようなものを見たのをきっかけに
昔の古傷を思い出した。

小学校に上がる前、入学準備として上履き入れを母と買いに行った。
駅前の履物屋さん。

少女まんがの絵柄で赤いビニールコーティングされた上履き入れ。
とてもかわいかった。
学校に持っていくのが楽しみだった。

ところが、入学間近になって私の上履き入れは無くなっていた。
近くに住む親せきから101匹わんちゃんの上履き入れを
もらったからそれを使うよう言われた。
2つあっても仕方がないから同い年の大家の弥生にあげたと。

今でも覚えている。
艶消しのエンジ色した上履き入れ。

101匹わんちゃんが嫌いなわけではないが、当時ディズニーに
ハマっていたわけでもなく、少女まんがの絵柄のほうが好きだった。
自分で選んだもの。
持ち歩くのが楽しみだったのに。

何十年経ってもあの頃の無力な子供時代を思い出す。
泣いて抗議したところで私の要求なんて通らなかった。
力でねじ伏せられたあの記憶。
2年も持ち歩かなければならなかった。
どうして、自分が選んだものを勝手に
簡単に人にあげてしまうんだろう。

1年生がエンジ色なんて喜ぶと思ったのか?
101匹わんちゃんに罪はないけれど、嫌で嫌で仕方がなかった。
好きでもない持ち物を2年間も持たされたあの頃の私は
今でも泣いているんだと思う。
ないがしろにされた記憶。
軽く考えられていた子供の気持ち。
行き場のない悔しさ、悲しみは今もここにいる。

母に会わなくなって10年以上が経過しているが
今でも大嫌い。
思い出すと怒りで震える。

本当に悔しかったんだ。