『家守綺譚』 梨木香歩 著 | 今日もこむらがえり - 本と映画とお楽しみの記録 -

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備忘録としての読書日記。主に小説がメインです。その他、見た映画や美術展に関するメモなど。

 

 

 

ブログ友(と一方的に認識)のノンジロウさんのレビューを拝見したら読んでみたくてたまらなくなってポチってしまった本。(そんなソソられるノンジロウさんによる記事はコチラです^^) 梨木香歩さん。初めての作家さん。後から、以前から気になっていた『西の魔女が死んだ』の著者さんだと知りました。

 

大学を卒業後、物書きとして生計を成り立たせることを目標に塾講師のアルバイトをしながら執筆生活を送っていた主人公、 綿貫征四郎。早世した学生時代の友人、高堂のご両親から隠居し引っ越すから家の管理をしてもらえないか、と持ち掛けられたのをきっかけに物書き一本に絞り高堂の実家にひとり静謐に暮らしながら出会った日常の些末な出来事を書き綴った形の28篇の物語。最初本のタイトルを「ヤモリキタン」と読んだのですが、ふりがなが「ヤモリ」ではなく「イエモリ」。なんでだろう?と思ったその理由はすぐに解明。まさに、家守(いえもり)人が体験する美しく不思議な物語たちなんですね^^。

 

一篇づつ、サルスベリ、都わすれ、ヒツジグサ、ダァリヤ、、、家の庭や近所で目にする春夏秋冬の草木や花のタイトルがつけられていていて、ゆっくりとした季節の移り変わりを目と耳と鼻で感じながら(感じるような気がするのです)、静かで賑やかな征四郎の日常に寄う感覚。懐かしくて、不思議で、幻想的な日々の重なり。読みながらどっぷり、幸せな気分に浸りました。「ダリヤ」ではなく「ダァリヤ」。「レモン」ではなく「檸檬」。たまりません(*'ω'*)。

 

征四郎を取り巻く暖かい人たちと怪奇たち。下宿のおばさんのように物知りで世話好きなお隣のおかみさん、商売熱心でどこか怪しげな長虫屋(彼の人間離れした空気感の謎はその独特の出生の秘密によるところが大きいらしいです)、囲碁仲間のお寺の和尚さん、商店街の肉屋のご主人、ふらっと現れてそのまま居ついた犬のゴロー。そして、気まぐれにちょいちょいと姿を現す、死んだはずの高堂(の、幽霊?)。さらに河童、人魚、狐と狸の化かし合い、小鬼、征四郎に懸想する庭のサルスベリの木・・・。

 

極めて現実的だと自己分析する征四郎ですが、摩訶不思議な出来事に出会う度にギャっと驚いたり戸惑ったりするものの隣のおかみさんや和尚さんや高堂に「それは、よくあることです」などと説明されると案外簡単に「なるほど、そういうものか」と泰然として受け入れる大らかさがいいです(*'ω'*)。場所や時代設定についてははっきりと明示はされていないのですが、恐らく明治中期から昭和初頭あたり?の京都と滋賀の間くらいの土地が舞台のように思われます。

 

京都(滋賀)と言えば。作家の森見登美彦さんは奈良生まれの京都大学、万城目学さんは大阪生まれの京都大学で彼らも滋賀京都の空気の中に暮らした作家さんたち。やはり千年もの間日本の政治と信仰の中心だった古都。天皇もおさすれば安倍晴明が活躍し百鬼は夜行していた土地柄だけに、山や庭の草木、疏水や池のそこかしこに摩訶不思議が今でもごく自然に息づいているのかもしれません。そんな気がしてきます( *´艸`)。

 

そして、ひとことひとこと、最高に美しい日本語で溢れています。あぁ、日本語ってなんて風情があって美しいんだろうってしみじみと思い出します。文語口語の区別すら無くなりつつある現代。自分だってもういい加減な文章ばっかり書いているし、言葉も風習も常に時代と共に変化するもので自体は悪いことではありません。でも、こういう文章が、日本語が、私は本当に好き。もうすでに失われたような言葉たちだけれども、自分自身が操ることはできないけれど、こうして活字に残されたものをまだ読むことができて、堪能するDNAが備わっていることに感謝。久しぶりに美しい日本語の世界にどっぷり、ウットリ・・・浸りました。

 

ノンジロウさんがご自身のブログの中で「童話のような昔話のような心温まる優しい物語。一気に読むのは勿体なくて毎日2、3篇づつ読んでました。」と書かれているのですが、その気持ちもとて共感しました。私も、早く全ての文章を味わい尽くしたくて、でも読み終わるのが勿体なくて、のんびり、ゆっくり、噛みしめるように1話づつ味わいながら、時々前のエピソードに立ち戻ったりしながら大切に読み進めて、そして最後はまた一番最初の項に戻ったり(*'ω'*)。

 

元来の犬好きではありますが、ゴローの存在は特にお気に入り。そうそう、犬って本当にそんな感じ!と共感したり、ゴローの才能に感心したり。我が家のわんこを何度チラ見したことか(笑)。犬のくせに(犬だから?)飄々とマイペースのゴローが、征四郎の知らない間にサギと河童の喧嘩を仲裁したり、それが評判となってほうぼうから仲裁役として頼りにされるようになり、鈴鹿の山の主にまで出張依頼がくるほどに!そんなゴローと征四郎の出会いの場面が、何ということもないのですがいたく気に入っています。

 

Q:

稿料が入ったので、駅前の商店街の肉屋で肉を買ってきた。肉の包みをぶら下げて歩いていたら、犬が後を付いて来た。しっしっと追うのだが、いっかな離れようとしない。付いてくるのは仕方ないにしても、肉をぶら下げて歩くのは不用心であるから、頭の上に載せて歩きながら帰ってきた。途中近所の爺さんに出会って、何かのまじないですか、と聞かれたので、異国の風俗をふと思い、と答えておいた。

:UQ

 

格別なぜここが?と聞かれると上手く説明できないのですが、何度も読み返した箇所です。恐らく、こうしてこの後、高堂や隣のおかみさんのとりなしもあって家に居付き唯一無二の犬となるゴローと征四郎の全ての始まりの場面だから、なのだと思います。そして、肉の包みを頭の上に載せながら無言でのっそり歩いている征四郎の姿を想像すると、そこはかとなく可笑しい。何度も何度も、読みながら微笑ましくてクスリとなったり、ニヤっとなったり。電車の中でもポーカーフェイスが難しかったです。もしかして不審者ぽかったらすみませんでした、とこの場を借りて同じ電車に乗り合わせた皆さまに向かってお詫びしておきます^^;。

 

他にも好きな箇所が沢山。ツクツクホウシの音が間遠になっていくのに夏の終わりを感じる場面では「およそ日本に住まいして、此の地の夏を幾度となく経験した者で、ツクツクホウシの音の衰退に感慨を覚えぬむのがあろうか」とか、征四郎が自己嫌悪に陥った自分を振り返り「自己を嫌悪する気持ちが八つ当たり的に展開しているだけのことである。そしてそれは更に自己嫌悪感を深める結果となる。こういうのを悪循環という。分っていてやめらないのを自虐的という」とか。

 

カワウソから鮎をもらったらしいい征四郎が隣のおかみさんにそのことを話すとひゃっと驚かれ「大変だ」「きっと、カワウソに同類と見込まれたんですよ」「取り憑かれたら、一生、カワウソ暮らしだ」と忠告されて、「実を云うと、私はこのとき、その『カワウソ暮らし』という語に激しく引かれる気持ちと、おかみさんの云うとおり、大変だ、という気持ちの二つを同時に感じたのだった」など。もう、数え上げたらキリがないのですが、いちいち日本人の感受性を刺激されるし、征四郎のオトボケすら漂う理屈っぽい思考は私のツボを攻撃し続けるのです。カワウソ暮らし。気になる( *´艸`)。

 

綿貫征四郎の綺譚話集、きっといくらでも読み続けられます。自然かつ当然の成り行きで、私もノンジロウさん同様、関連の『村田エフェンディ滞土録』そして続編の『冬虫夏草』も続けて購入。でも、やっぱり勿体ないから、一時に読みきらず、時々のご褒美気分でじっくり、ゆっくり、味わう予定。梨木香歩さん、しばらくハマりそうです。