ある高校の野球部の活動で、暴力や不適切な行為があったとして、連日ニュースやSNSを賑わせています。
その学校が試合に出場することの是非について、さまざまな声が上がっている中で、私がどうしても気になっているのは、その学校と対戦する“相手校”のことです。
昨日の試合で対戦した高校――北海道の予選を勝ち抜いてきた高校の選手たち、応援団、そして関係者の皆さんは、本当に気の毒だったと思います。
彼らには、何の非もない。
ただ“相手が注目されている学校だった”というだけで、過剰な注目、重すぎる空気、そして勝っても負けても語られてしまう「物語」に巻き込まれてしまったのです。
そして、次に戦う中部地方の予選を勝ち抜き、そして甲子園での1回戦を勝ち抜いた高校も、同じような目にさらされるでしょう。
「次の相手はどこだ?」「正義はどう動く?」
まるでドラマの続きでも見るかのように、好奇の目が、勝手な期待が、静かに彼らに押し寄せていきます。
それは本当にフェアな試合と言えるでしょうか?
彼らはただ、純粋に野球をしに来ただけなんです。汗を流し、泥まみれになって練習してきた日々。
その結晶として、甲子園という夢の舞台に立っている。
本来ならば、全力を尽くし、悔いのない戦いができる――そんな環境が用意されていてほしい。
けれど、現実は違っている。
注目を浴びるのは、あの学校。
報道されるのも、あの学校。
試合をしても、主語にならないのは“相手”の方なんです。
そして思うのです。
「全力を発揮して、悔いのない試合を」と言うのは簡単だけれど、その舞台が“静かな不公平”で覆われていたら、それはあまりに酷ではないかと。
高校野球は、本来、部活動の一環であり、教育の場であるはずです。勝つことだけでなく、仲間と支え合うことや、努力する尊さを学ぶ場所だったはずです。
けれど最近、何かが変わってきているような気がしてなりません。
高校の野球部が、1年間の練習の成果を全力で発揮し、甲子園という晴れの舞台で日本一の座を競う場ではなくなってきている。いや、春の選抜大会も夏の選手権大会も、大人が作った「興業の場」になっているのが現実だと思うんです。
選手たちが、自分たちの物語ではなく、“大人たちがつくった構図”の中で消費されていくような、そんな感覚――それを止められるのは、やはり大人たちの責任なのではないでしょうか。
どうか、次の試合に臨む選手たちが、本当にフェアな舞台で、自分たちの力を発揮できますように。
その思いだけは、静かに、でも強く願っています。