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Blog by a girl from Tokyo, lives in Montreal

モントリオール日記を書ききろうと思ったのだけれど、どうもわたしには根気というものが足りていない。まぁ、いつか気が向いたらまた書きます。

東京にもどってきて約1ヶ月、今のわたしを一言で現すなら、

そう、

「ニート」。

いや、正確には大学に籍を置いているので完全なニートではないのだけれど…
アルバイトをつらつら探しつつ、なにをしているかというと、東京観光である。

東京出身なのに、東京観光。なんとも不思議な響きだが、2年ものあいだ留守にしたら、すごくいろいろできちゃってたんですよね。ヒカリエとか、スカイツリーとか。

で、昨日の夜に誰かがfacebookに投稿しているのを見て、ソラマチの『マイケル・ジャクソン展』がもうすぐ終わっちゃうのを知り、行ってきました。

わたしはまぁ年齢的にも、マイケルをリアルタイムで聴けた世代ではない。
けれど、友達と観に行った『This is it』で衝撃を受けてしまったクチだ。
(結果いちばん最後の上映も含めて、4回観に行った)
生前からのファンの人達からしてみればにわかファンだろうが、サウンド系の勉強をしていたこともあり、マイケルとクインシーはなんというかもう、神様だ。

デンジャラスツアーのDVDは観るたびに泣いてしまう。
なんで泣けるのかわからないが、あの映像はなにか圧倒されるものがある。

そんなマイケルの、伝説のコスチューム達が間近で見られるこの展覧会。
来月にはオークションにかけられてしまうそうで、同じ人が全部買う、ということが起こらない限り、揃って見れるのは最後だそうですね。ひとつひとつのデザインや機能にこだわりが見えて、ファッションの視点から見てもほんとうに面白かった。

まだの方はぜひ。

さて、ここのところMyspaceは利用者も減っているらしいので、youtubeのチャンネルをつくってみました。
自分のつくった曲の他にカバーなんかもアップしていきたいです。
わたしもPomplamooseとかDirty Loopsのカバーシリーズ大好きなんです。
今のところアップしてるのは、学校のときにサンプリングの課題でつくった東京事変の『恐るべき大人達』のカバー。
中国の楽器のサンプルを使えたのがよかったですね。いいー音なんですよ、チェンっていう楽器だそうですが。




こっちはモントリオールでつくった曲。



聴いてくれたらものすごく嬉しいよ。
多くの留学生がはじめはホームステイを選択すると思う。慣れない国で、言語で、アパートを探すのは至難の業であるし、その土地の人の雰囲気を知るにはホームステイはうってつけではあるのだ。留学エージェントはホームステイ先を探してくれるし、なにか問題があれば違う家に行くこともできる。が、友達たちの経験を見るかぎり、完璧なホームステイ先が見つかるというのはほとんど奇跡に近いと思ったほうが良さそうであった。もちろんなかには楽しそうにやっている子もいたが、断言しよう。ホームステイは太る。知りあった日本人の留学生全員が口をそろえて言っていた。

わたしはというと、留学エージェントに申し込んだその日から担当の人に、「ホームステイではなく、一人暮らし希望です。」と明言していた。珍しいケースだったとは思うが、まったくないわけではないらしく、語学学校が提携しているアパートに申し込んでもらえた。いま考えると非常に割高な部屋ではあったのだが、東京で一人暮らしするのにくらべたら安いくらいだったので、ほいほーいと両親も快諾してくれたのだ。

なぜ一人暮らしにこだわったかといえば、そう、音楽をするからである。当時わたしはすでに音楽製作に必要な機材等をかなり買いそろえており、すべては無理でもいくつかは持って行くつもりであった。キーボードも現地で調達しようと思っていた。しかし、どう考えてもよくわからん日本人がキーボード持ち込んでポロポロ弾くのを受け入れてくれるホームステイ先はないと思ったし、なによりわたし、他人との共同生活が大の苦手なのである。実は中学3年のころから、親とさえ同居していないのだ。別に複雑な家庭環境というわけではなく、子供の自立を願う親によって、すでに大学生で一人暮らしをしていた姉と住んでみなさいとすすめられたのだ。とはいっても実家から目と鼻の先であったので、半分共同生活と同じだったが、それでもひとつ屋根のしたで寝泊まりするのとは全然ちがう。結果わたしは、基本的な家事などはこなせる反面、友達とのお泊まり会では緊張してあまり眠れないようなかんじになってしまった。

そんなこんなで住む場所も万全でたどりついたモントリオールであったが、着いた直後からアパートのトイレが水漏れしていたり、食べるものも水もないのに夜中なのでどの店も開いてなかったり、あげく蛇口からでた水はあきらかににごっており(こわい)、姉が空港でわたしてくれたチョコレートと、備え付けのやかんで沸かしたお湯(わかせば多少殺菌されるかなって…にごってることに変わりはなかったけど)でしのぎつつ、「や、だいじょうぶだよ、そんなに悪くないよ、うん。」と自分をはげましつつ、ちょっと泣きながらその日はむりやり寝た。

その後も、夜中の2時にいきなり火災警報機がなって住民全員そとに出される、デパートで買った物が不良品だったので取り替えてもらいに行ったら「自分で代わりのやつとってこい」と言われる(前回こわれてるやつを引いたアンラッキーなわたしが次も不良品をとってしまう可能性は高いと思いませんか)など、カルチャーショックは連日つづいた。自分でいうのも何だがわりと温室育ちであったわたしは日々いっぱいいっぱいであった。

つづく
あと一週間で、1年間かよった専門学校を卒業して、2週間とちょっとしたら、わたしは2年暮らしたモントリオールを離れる。なんだかこうして書いてみると嘘のようだ、なんだかぜんぜん現実感がないや、わたしほんとに行くのかな。

わたしがこの街に来たのは、2年半前の3月、真夜中につく飛行機だった。よく大学生がやる、1年間の語学留学の予定だった。大学受験どころか高校受験すら経験していない、エスカレーター式学校育ちのわたしは、過去完了形のなんたるかもしらないほど英語とは疎遠であった。国際化を考慮する厳しかった祖母には何度かニュージーランドへの短期留学をすすめられたが、断固拒否。日本が好きだったし、とくに海外にも興味がなかった。いま考えれば行きたくとも行けない人もいるのに傲慢だったと思うが、自分は日本で、日本人の間で何者かになれてやっていければいいのだ、と決め込んでいた。

そのわたしが急に長期留学など、いわば準備体操なしでプールに飛び込むようなものである。
なぜ決めたかといえば…大学に入ってからすこしづつDTMだの、作曲の勉強をはじめて、英語がわからないと理解できない音楽も、つくれないジャンルもたくさんあるということをひしひしと感じていたのが大きい。若いうちから活躍しているシンガーの女の子たちはみんな、帰国子女だのインターナショナルスクール出身だので、別に彼女たちのようになりたかったわけではないが、チャンスの幅が圧倒的にちがうのはわかった。

くわえて、これはあまりカッコイイ理由じゃないので小さな声で言いたいが、当時わたしは人生最大の失恋をし、しかも相手と交友関係のほとんどを共有していたおかげで東京にいるのがつらかった。とにかくその人から徹底的にはなれたら、あきらめがつくような気がしたのだ。

留学先をモントリオールにしたのは、天啓をうけた、としかいいようがない。
今でもはっきり覚えているのだが、その日わたしは姉と夜中のコンビニで、やっぱり英語話せるようになりたいよね、という話をしていた。私たちは叔母のやっているフランス語教室にも通っていたので、ここまでやったフランス語をマスターしないのもいかがなものか、とも思っていた。すると姉が、じゃあカナダのケベックなら両方勉強できるんじゃない?と言ったのだ。
その瞬間、小学校の担任の、別に好きでもなかった地理の授業を思い出した。カナダの一部にはケベックという、フランス語を話す地域があります、と聞いて、いつか行ってみたいとぼんやり思ったのだ。そうだ、ケベックだ!家に帰って即効わたしはググった。ケベック州で一番大きい都市がいい。(都会でしか生活できないであろうことは自負していた。)モントリオール!ヨーロッパのような街並み、住民のほとんどがバイリンガル…うふふ、これならうまくすれば2カ国語修得なんてことも…。
その後フランス語習得の夢はいともはかなく散るのであるが、その夜もうわたしの心は決まったのである。

翌日の昼下がり、わたしは書斎でパソコンに向かう父の背中にむかってきりだした。
「ねぇ、お父さん、留学したい、って言ったらどう思う?」
もちろん大きなお金をつかうことだし、多少の申し訳なさもあり、おずおずと遠慮がちにわたしは聞いた。
「いいんじゃない。行きなさいよ。」
以上であった。もっと話し合いとか、ともすれば家族会議を想定していたわたしは拍子抜けしてしまった。しかしわたしの父というのはつねづねこういう人なのである。父は教育に投資するのをまったく厭わない人で、(本人が勉強大好きだからだと思うが)わたしや姉の学問に関して非常に協力的だが、勉強する内容の選択についてはとくになにも言わないのである。わたしが中学を決めかねて相談したときも、大学の学部を選ぶのにアドバイスを求めたときも、「あんたの人生なんだから、自分で考えて選びなさいね。」のひとことに尽きてしまうのである。(結果わたしは中学を制服で選び、大学の学部を名前のかっこよさで決めた。)

以外に反応が大きかったのは母であった。彼女はわたしがいかにそそっかしく、内向的で神経質かを知り尽くしているので、「だいじょうぶなの?!」という雰囲気であった。同時に、娘が遠くに行くのがさみしいようでもあった。(うれしい限りである。)母は行く直前、むしろ行ってからも、「ダメだったらいつでも帰ってきていいのよ~。」と言っていた。実際に帰ることはなくても、本当にダメだー、とあきらめても責められないんだ、と思えて、この言葉には何度も助けられた。母は「あなた、青い目の男性を連れてかえってきちゃうかもね。」とも言っていた。結局わたしが出会ったのは青ではなく黒い目の男性であったのだが、それはまた別のはなしである。

つづく