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ものがたりの小部屋

昭和8年生まれのおばあちゃんが、小学生の頃を思い出して書いたものがたりです。こんな時代があったことを、残せたらいいなと思っています。
ときどき童話も書いていきます。

その朝、一時限目がはじまっても先生はなかなかすがたを見せませんでした。月子さんは待つ間に筆箱から鉛筆を出してナイフでけずりかけましたが、鉛筆はがつがつとけずるかたはしからぽろぽろくだけてしまいました。鉛筆の芯が消し炭のように粗末な品なものになっているのです。


消しゴムでも紙でもそれはそれはそまつなものでした。消しゴムはゴムホースのように固く、紙はかべ色にくすんでいてザラザラ。字を書くのはあきらめた月子さんは筆箱のそこからキャップをかぶせた鉛筆をとりだしました。これは月子さんのお母さんが戦争がひどくなる前にと何ダースか買いだめした学用品で月子さんにとっては大切な財産でした。


それというのも月子さんは一人っ子で、四人姉妹の末っ子である春子さんのようにお姉さんたちからのお下がりはひとつもありませんでした。春子さんは着るものでも帽子や学用品やおもちゃなどでもどっさりもっていたのです。みんなお古でしたから戦争がはじまる前のゆたかなころにつくられた上等な品物でした。運動靴だって春子さんはどんどん大きくなる足にそのつど小さいお姉さんのお古、それも小さくなると次のお姉さんのお古という風に自分の足にぴったりのはきものを身につけていられました。


それにひきかえ月子さんは三年生の時に買ってもらった運動靴をまだはいていたのです。足のかがとをふむ行儀の悪い歩き方しかできずあちらこちらがすりむけていたいのをがまんしていました。昨日もおかあさんがためいきをついて


「やれやれ、これがだめならもうげたかぞうりをはいて行くしかないわ」

といいましたが、月子さんは下駄をはいて通学するのはいやでした。


( 春子さんはいいな。洋服だって学用品だってたくさん持っているんだもの)


月子さんは教室の反対がわの席にいる春子さんのほうをみながらこう思っていました。


このときやっと、受け持ちの先生が入ってきました。

1943年ごろのお話です。


そのころ日本の国は、大きい国ぐにと戦争していました。何百万人という国民が戦場へでかけておりました。国内にのこったのは年寄りや女のひとや子どもたちでした。つまりは戦いに行っても弱くて敵をやっつけることのできないひとびとだったのです。


少しばかりさいわいなことに、その年は敵の飛行機があちらこちらの町へばくだんを落としに来る大がかりな空襲はまだなかったのです。だから学校へかよう生徒たちもまだすこしはのんきな顔をしていられました。でも戦争をしているよその国から買い入れることができなくなったため食べるものも着るものもどんどん少なくなって配給制になっていました。おなかをへらしながら、みんな歯をくいしばってがまんするようにいいつけられていたのです。そうしないと戦争に負けるぞとこわい大人がさけんでいました。

 

 あと一週間で夏休みという日の朝、そのころは国民学校と呼ばれていた小学校へ通う月子さんは、いつものように近くの春子さんをさそって集団登校の列に入って歩きました。二人とも小学校四年でした。朝から暑い日でしたが二人とももんぺというきもののようなズボンをはいていました。ほかの女の子もみな同じかっこうでした。そのうち空襲でもはじまったらスカートではにげにくいからということなのです。


 少なくなっているのは食物や着るものだけではありませんでした。学用品もおもちゃも何もかも少なくなっていました。百貨店でも近くの商店街でもショーウインドウの中は空っぽでした。遠足へ行っても運動会があってもおいしいおべんとうがないのですから、たのしいことは少しもないのでした。