何気なく使っていたこの言葉。
Wikipediaによれば、
偶然性は、実存主義などでは、人間存在の不条理さを示すものとして理解されている。この不条理さ・無意味さは、同時に、必然的な本質の欠如を意味するものである。そのため、「人間は自由の刑に処せられている」というサルトルの言葉にあるとおり、偶然性は、自由の概念と結びつけられることになる。
これに対して、ヘーゲルなどの理性主義では、理念の現われとして理解される現実の必然性・有意味性が強調されている。そのため、偶然性は、あくまで一時的で無意味な現象の側に帰せられている。
とのこと。
そのものとして考えると哲学においては、無意味な現象らしい。
完全に勉強不足。知らなかった。
言葉の問題だとは、言い難い。ある程度の共通認識は踏まえて言葉は使われるべきだ。
後付けの理屈になってしまうが。
私は、全く違う意味でこの言葉を使っていた。
偶然自体にエネルギーも可能性も希望もない。
ただ、あるのは、事実としての概形のみ。
それに力を与え、明確な形にするのはそれに関わる主体である。生かしたい、我が糧にしたいという時間においては偶然が起きる前の段階の主体そのもののエネルギーとか、意思があるからこそ、瞬間的な契機となり、力となることができる。
意味と力を与えるのは主体だ。
決して反対ではない。
これを全て含めて、偶然という言葉を捉えていた。
何かを主張しようとする時に、文脈の中で重要で決定的な位置を占めるような言葉の取り扱いには、細心の注意を払うべきだった。
反省して、今後に生かそうと思う。