自分が必要とする音楽イメージにマッチした
曲作りに取り組み始める。
しかし、単に音楽として成立している曲を作るのと、
自分の望む音楽のイメージを体現している曲を作るのとでは、
そのプロセスの難易度が全然違う印象。
音楽でも、デザインでも、物作りでも、シナリオでも、
手を抜かない作品作りは充実感もあるけど、
やはり気が狂いそうな感覚もある感じ。
ある意味、新たな地獄の幕開けかもしれない。
先々月から対人関係の中で自分がもっとオープンになることを
促すような現象が起きているが、その時間の流れの中で
掘り下げていくと面白そうな要素が一つ現れた。
何かをしようとする意識や自分が輝いた感覚がない中で、
救われたような気持ちになったというような反応が
唐突に自分に届いた時があったのだが、少し懐かしい気がする。
このような現象は以前にも何度かあったことで、
自身の身体や命が勝手に動いて、よく分からないうちに、
いつの間にかそうなっていたという理解が追い付かないミステリー(笑)
その後に自分の目の前で起きた現象やキーワードを見る限り、
プレゼンスという作用が相手に働いたのがその原因だと思われるが、
もし、この性質を意識的に扱えるようになったら、どうなるのか。
個人に対してでも、グループに対してでも、多数に対してでも、
世界や地球などのスケールの大きいことに対してでも。
純粋にその光景を見てみたいと感じる。
そのためには人間という生命体に対する
主観や過去のイメージに飲み込まれてはいけない。
そのイメージに影響されない純粋さと選択が必要か。
これまでの人に関する主観的な印象に流されてしまうのは、
自分の持つ悪い癖の一つだな。
交わる縁のある命が誰であっても、
どんな負の状態になっていたとしても、
自分が約束して望んできた輝きで在れるだろうか。
心許ない。
以前のように無関心や思い入れのなさ、過去のイメージからの
拒絶や弾く選択を繰り返してしまうかもしれない。
でも、その輝きとそこから構築される世界と時間を
出現させる性質は初めから秘められていて覚えているものだ。
灯台下暗しのように見えておらず、
認識できていなかっただけに過ぎない。
余計な思考や難しい計算ではなく、
ただ純粋性のまま、活かされるまま在るだけで良い。
元から刻まれている自身の純粋性の感性に、
もっと自信を持って。
交わる縁のある命が何であったとしても、
純粋性の感性を開けるまで何度でも向き合ってみる。
約束の輝きが届く日まで、何度でも向き合う。
あっ、ちなみに、今はこんなこともやっています。
http://ameblo.jp/refrain-against/
https://its-a-wonderful-life.themedia.jp/
https://darkness-of-the-mind.themedia.jp
興味があれば、覗いてみて下さい。


