8月6日、広島の70回目の原爆記念日を迎えました。
この地上で二度と核兵器が使用される事がないよう祈るばかりです。
その意味で広島、長崎の被爆の事実は抑止力につながっていると思います。
ただ、43年生きてきて初めて新たな疑問が頭をもたげました。
この式典には各国から多くの要人が参列されますが、戦後最も深い外交関係にあるはずのアメリカ合衆国大統領の姿は70年経っても一度もありません。
原爆を作ったのも、落としたのも他ならぬアメリカです。

別に私はアメリカが嫌いな訳ではないですが、この現実を疑問視する動きが見られないのは、単純に不思議でなりません。
そう思い始めると東京裁判のあり方に異を唱える人たちは右翼だという風潮を何となく身体に馴染ませていた自分に気づきます。

戦争でのルールとして互いに軍人及び軍事施設のみを攻撃するという基本があるそうです。(ハーグ陸戦条約)
原爆二発も東京大空襲も無差別爆撃でした。
原爆投下は人体実験だった事を裏付けるアメリカの公文書も一部公開されているそうです。
学校で私が教わった中では、日本が残忍な侵略をやめないから戦争を早く終結させるためにアメリカは原爆を投下したという話になっています。
しかしそれ以前にポツダム宣言は発せられていて、既に連合国側は日本の降伏を見込んでいたように思えます。
百歩譲って、早期終結の為であっても二発も投下する必要はなかったはずです。
ご存知の方も多いと思いますが、広島にはウラン型、長崎にはプルトニウム型と異なるタイプが投下されています。
これが二発となった理由であろうと考えるのは自然だと思います。
これを正当化するにはかなりの無理が必要で、戦後の歴史観が未だに揉め事の種となる大きな理由なのだろうと思います。
日本は被爆者への補償を自国で行っており、アメリカには求めていません。
サンフランシスコ講和条約があるからで、今後も求める事はないでしょう。
戦争は勝った方が正義だというのもわかりますが、もう70年も経っているのですから、純粋な慰霊として合衆国大統領にもお越しいただきたいと思います。
日本人はそれで何かを補償しろだの反米だのとはならないと思います。

昨日は8/15でしたね。

最近はネットでいろんな情報が入るので、今まで全く意識した事のないこれまで正しいと考えていた事が本当に正しいのか?という疑問が多くなってきていて、特に太平洋戦争については改めて考えさせられます。

別に私は右翼思想ではありませんし、極端にどこかの国を敵視するという思想もありません。

ましてや戦争を肯定するつもりもありませんし、歴史認識について、自分の考えを他人に押し付けるつもりもありません。

ただ、「自分の国の歴史は正しく認識しておきたい」という思いは普通に持っています。


興味のある方だけご覧いただければと思いますが、我々が学校教育で全く教えられなかった、米国、中国(中華人民共和国)、韓国以外の国々が、あの戦争について日本をどう評価しているのかという事が記述されています。

http://bewithgods.com/hope/jiji/daitouwa.html

ネットで読むにはかなりのボリュームですし、どこまで信憑性のあるものなのかは不明です。

ただ、これまでちょっとおかしいと思っていた部分について、納得のいく内容というか、現在特定の国から69年以上前の事で恐ろしいほどのバッシングされている理由が少しわかる気がします。


「どの国の歴史も、その時点の権力によって都合よく書き換えられるもの」という話も聞きますが、戦前にはほぼもれなく欧米の植民地、またはそれに近い状況であったアジアの国々の歴史観がどうなっているのか?という視点で語られる歴史書がないというのは、どう考えてもおかしいとこの記事を読んで私は思いました。(もちろんここに書いてあることがすべて正しいとも思っていません)


真実がどうだったから、今までを全否定するという必要もないと思いますが、自分の国を愛せない国民は間違いなく不幸です。

日本人の平和を愛する心や、礼儀正しさ、親切さなどは敵対視している国の人たちにも一目置かれていますし、一部の国は日本人を尊敬してやまないという話も聞きます。

正しいことは正しい。間違ったことは間違い。とはっきりさせる事はとても重要な事だと思います。


最後に、昨日はやはり戦争をテーマとする番組が数多くオンエアされていました。

中には今の日本人には考えられないような、他人に思いやりのない言動が見られました。

これは、当時の思想のせいだと誤解する人もいそうで心が痛みましたが、やはり貧困である事が思いやりをなくさせるのだと思います。

私たちが「日本人としてこうありたい」と願うそのスタンスを保つためには、やはり豊かであり続けなければならないのだという事を改めて思いました。


昨日はいつもお邪魔する介護タクシーグループの会議で、会議後はいつものごとくお酒の席となりました。

その中で聞く事ができた素敵なお話。

『鬼の母』というのは生まれつき右手が不自由な息子さんを持つお母さんです。
母はその子を普通の幼稚園に通わせます。

しかし残念ながらその子は幼稚園で毎日いじめに遭い、毎日泣きながら帰ってきます。

そこでお母さんはどう行動したのか?

お母さんはその子にこう言いました。
『あなたは他の子が普通にできる事ができないんだから、いじめられるのは当たり前でしょう。悔しかったら他の子と同じように、頑張ってやってみなさい。』

確かに『鬼』ですね。

しかしそこで『この子はかわいそう』と庇護してしまえば、きっとその後もいじめは続き、もしかしたら健常者と一緒の社会に溶け込む事もできなくなってしまうかも知れません。

お母さんはそれをわかって、敢えて『鬼』となったのです。
その時のお母さんの心情を察すれば、身がよじれるほどの思いだったろうと思います。

しかしその後の彼は人一倍頑張って、不自由な右手の肘と左手を使って折り鶴を折るなど、そのハンデを克服して見せたそうです。

その後に生まれた弟さんは健常者ですが、今もお兄さんを大事に支えているそうです。
その弟さんはきっとお兄さんに対して大きな敬意を持って接しているのだろうと思います。