注)言葉の表現が悪い部分があるかもしれません。気にさわったらすみません。
春分の日に震災後初めて亘理方面に行った。亘理町逢隈に私のおば一家が住んでいる。
仮設住宅に住んでいるおば(母の姉)のところに行った父母からは「何もない。ホンット何もないんだぞ。目印も何も。」とは聞いていたけれど。
名取.岩沼を抜け、製紙工場の煙突の煙が見えるあたりで阿武隈川にかかる橋を渡り亘理町へ。
曲がり角のスイミングスクール、いとこ一家と一緒に行ったさくらんぼ園…ここらへんはあまり変わりはないように見える。亘理全部がダメになったと思っていたけど、そうじゃないんだと行って見て知った。
が、そう思ったのは束の間で、東部道路を境に一変した。
おばの家には2~3年に1回行くか行かないかだったので家の場所は正確に覚えていないが、私の中で行くまでの目印にしていた神社.蒲鉾屋さんの前は住宅が立ち並び細々している印象だったのにガラーンと視界が開けていた。
ここ一帯の集落はもちろん、おばの家があったであろう辺りも一面平地になっていた。さみしく残るは土台のみ。涙がこみあげた。
鳥の海温泉の建物が唯一この辺に残る高い建物だったが営業はしておらず、横にはガレキの山がすごい高さに積まれていた。
漁港付近には飲食店が出店していて、ちょうど昼時で観光バスが停まっていた(お弁当のフラミンゴさん。今の時期だとほっきめし。)。そして町中を通って帰路へ。
いとこの子供たちと買い物したコープのあたりは特に変わりなかった。生活用品のお店もけっこう開いてるようだった。そこから少し車を走らせていると仮設住宅が見えた。「おばたちもここにいるのかな?」と思いながら亘理を後にした。
行って見て知った。ホントに東部道路が境だったんだなって思った。
ただ見に行っただけで批判されるかもしれないけれど…、私は行けてよかった。あの光景を目に焼き付けてきた。
震災の日の夜、車の中でテレビのニュースを見て津波があったと知り、真っ先に気になったのはおばだった。
数日は電話もメールもつながらず、生存確認をどうにか取りたくて他県に嫁いだいとこ(おばの娘)にメールした。
そしたら一家全員の生存が確認できて…泣)
母も祖母もおじも、いとこの連絡先までは知らなかったから、そこでやっと確認できて皆で安心して。
震災から数ヵ月して、母がおばと電話している時に声が聞きたくて代わってもらったけど、いろんな思いがこみあげて泣いてしまった。声を聞いて「あぁ、生きてるんだな」って再確認できて泣いてしまったんだけど、それ以降話せず。代わった母におばが「〇〇ちゃん精神不安定なの?大丈夫?」と言ったそうです(苦笑)
うれしかったんだよ!
声だけでこんなんなった私だから、会ったらもっとヤバいと思います。また会える時まで…とっておきます。
春分の日に震災後初めて亘理方面に行った。亘理町逢隈に私のおば一家が住んでいる。
仮設住宅に住んでいるおば(母の姉)のところに行った父母からは「何もない。ホンット何もないんだぞ。目印も何も。」とは聞いていたけれど。
名取.岩沼を抜け、製紙工場の煙突の煙が見えるあたりで阿武隈川にかかる橋を渡り亘理町へ。
曲がり角のスイミングスクール、いとこ一家と一緒に行ったさくらんぼ園…ここらへんはあまり変わりはないように見える。亘理全部がダメになったと思っていたけど、そうじゃないんだと行って見て知った。
が、そう思ったのは束の間で、東部道路を境に一変した。
おばの家には2~3年に1回行くか行かないかだったので家の場所は正確に覚えていないが、私の中で行くまでの目印にしていた神社.蒲鉾屋さんの前は住宅が立ち並び細々している印象だったのにガラーンと視界が開けていた。
ここ一帯の集落はもちろん、おばの家があったであろう辺りも一面平地になっていた。さみしく残るは土台のみ。涙がこみあげた。
鳥の海温泉の建物が唯一この辺に残る高い建物だったが営業はしておらず、横にはガレキの山がすごい高さに積まれていた。
漁港付近には飲食店が出店していて、ちょうど昼時で観光バスが停まっていた(お弁当のフラミンゴさん。今の時期だとほっきめし。)。そして町中を通って帰路へ。
いとこの子供たちと買い物したコープのあたりは特に変わりなかった。生活用品のお店もけっこう開いてるようだった。そこから少し車を走らせていると仮設住宅が見えた。「おばたちもここにいるのかな?」と思いながら亘理を後にした。
行って見て知った。ホントに東部道路が境だったんだなって思った。
ただ見に行っただけで批判されるかもしれないけれど…、私は行けてよかった。あの光景を目に焼き付けてきた。
震災の日の夜、車の中でテレビのニュースを見て津波があったと知り、真っ先に気になったのはおばだった。
数日は電話もメールもつながらず、生存確認をどうにか取りたくて他県に嫁いだいとこ(おばの娘)にメールした。
そしたら一家全員の生存が確認できて…泣)
母も祖母もおじも、いとこの連絡先までは知らなかったから、そこでやっと確認できて皆で安心して。
震災から数ヵ月して、母がおばと電話している時に声が聞きたくて代わってもらったけど、いろんな思いがこみあげて泣いてしまった。声を聞いて「あぁ、生きてるんだな」って再確認できて泣いてしまったんだけど、それ以降話せず。代わった母におばが「〇〇ちゃん精神不安定なの?大丈夫?」と言ったそうです(苦笑)
うれしかったんだよ!
声だけでこんなんなった私だから、会ったらもっとヤバいと思います。また会える時まで…とっておきます。