12/6:人と生 | ごみばこ

ごみばこ

えのないえにっき

人生という言葉は、この夏にいろいろあり使うことを避けてきたが、このさい一番しっくり来る言葉なので使っていこうと思う。

今日の哲学の講義(あくまで全学共通の教養科目で、理系の私には深い話は一ミリたりとも理解出来ないのだろうが)で、アリストテレスあたりの最高善についての話があった。人生の選択において、善いと思われる無数の選択肢の最後に、最高善があるという話である。それこそが、人生の最高到達点であり最大目標であるのだ、という話だ。

それが、アリストテレス曰く政治学だと言っており、今日の講義はそこで時間が来てしまった。この時代の政治学は、倫理学に繋がるものがあるらしい、不思議な話だが

最高善とは一体なんだろう、という風に考えたときに、今の考えは、死ぬことだと考えている。若い考えかもしれないけれど、生きるということは、死ぬことだと思っている。以前、そういう風な話をするませた友人とそういう風な話をしたことがある。「生きる」ことと「死ぬ」ことは、どちらがどちらに内包されるのか、という話だ。

「死ぬ」ことに関して恐怖がない訳でない。先が見えないことに対する恐怖はたしかにある。なにもないかもしれないしね

でも結局今生きているのは死ぬためだと思っている。すなわち、生は死に内包されていると考える。死ぬために生きている。死ぬことが最高善だと考える。

では最高善としての死とは何か考えたとき、「死んだあと」がどうなるか分からない以上、「死を覚悟してから」「死ぬ」までの時間が幸福であれば善いように思える。「死を覚悟するとは何か」、なんだろう、わたしは、ずっとしに場所を探している。中2のようにも思えるが(そうではあるんだけど)、俗世から切り離されればすぐに死んでしまえる自信はある。

いつか死ぬのだから、いつ死んでも大して変わるまいと思っている、しんじている。

だからこそ、死に美学を求めたいと思っている。いつ死ぬかは、わからないから、死ぬときは美しくありたい、(形式上このような形容詞を使うが、それに限らずすべての形容詞がこれに含まれる)と思う。

美学とは何か。日本人的に考えるならば、刹那的に死ぬことだろう。

幸福を求めることは人間として当然の行為と定義出来るならば、幸福を求める行為に幸福な死を迎えることは含まれているであろうしそれを求めることも何ら不自然でない。

だから、人生の目標、人間の最高善としてそれを私は置いているというだけの話であって、それによって目的と手段のすり替えのようなことがおこっているように見えるだけなのかもしれない。つまり、死ぬために生きているように思っていたものが、生きるために死ぬことになっているのかもしれない。客観性を持てないので、わからない。

自殺願望とはまた違う話だが、幸福に死ねるなら死んでもいい

考えているのは幸せだから、考えながら死にたい