ゴミ袋の小ささは生活の豊かさに比例する。(甲)
なんでもない生活を送って、ふいに面白そうなことを思いつく時がある。それはたいていなんでもないときだ。日々のルーティーンの中で、さながら9マイルは遠すぎる、という文章が思い浮かぶような、そんなナンセンスなたとえしか出来ないくらいのくだらなさ、その面白さの中でくだらない、面白いことを思いつく時があるのだ。それは人間あるあるであったり、アイロンの掛け方であったり、面白くない映画のネタを思いついたり、そんな誰にでもあるような話。ルーティーンの中でルーティーンではない微々たる刺激(自分が意識して認識できないような微々たる刺激)からそれはたいてい想起されるものだが、今日はゴミ袋がなくなった、ということであった。そんなことはあくまで事件の引き金であり、それは今回の話とは直接的には関係ない。ので仮にこうしておこうと思う。
僕はある時突然「ゴミ袋の小ささは生活の豊かさに比例する。」という文章を思いついた。これについて検証してみようと思う。ゴミ袋と生活との直接的な因果関係はあるだろうか。ゴミ袋が小さいということは何を意味するか。入れることのできるゴミが必然的にそれより大きいゴミ袋より小さくなってしまうだろう。基本的には不便な気がする。生活は寧ろ豊かさを失うのではなかろうか。出すゴミが大きければ大きいほど、消費もまた大きいはずであり、消費が大きいことは基本的に生活に豊かさをもたらすだろう。
では、ゴミ袋の小ささは生活の豊かさに比例する、という僕が想起した命題は必ず正しくないのか。この問に対しては僕は素直に首を縦に振ることが出来ない。必ずしもそうではないと思っている。なので、この文章が必ず成り立つということを反例を上げて否定していこうと思う。ひとまず、このゴミ袋の小ささは生活の豊かさに比例するという問を置き換えて考えていくことにしよう。
ゴミ袋の小ささは心の豊かさに比例する。(乙)
「生活」というワードを「心」と置き換えてみる。この問乙ならば、(日本人的に見れば)かなり広い範囲で命題が正であるような印象を受ける。最近ミニマリストという言葉をよく耳にする。個人的にはやり過ぎだとも思っているが、ミニマリストを見ていると、無駄を捨て去った境地は、日本が古来より保持し続けてきた「禅」の面影に重なる。禅とは心である。消費が小さい生活は、心が豊かな生活であるとも言えるのではないだろうか。すなわち、極端に言えば、(あくまで「禅」の思想下においてだが)消費が小さくても、豊かな心を持ち続けることはできるということである。消費が小さければ小さいほど心が豊かになるのか、と反論された際にはたしてそれはどうなのかというふうにしか言葉を返すことは出来ないのだが、問乙にはその部分も一部ある。豊かな心は豊かな生活を育む。豊かな生活は豊かな心を育む。両者は、表裏一体と言っても過言ではない。
さて、問乙のもとで、問自身を問甲に戻した時に、問乙の我々が必要としている部分が問甲に内包されているのか、ということを証明する段階になるのであるが、それはなんともいえない、というのが暫定的な回答でしかない。ここまで詭弁を積み上げてみるものの、このナンセンスな問にアプローチできるのは(僕は)このあたりが限界である、潮時である。
以上より、ゴミ袋の小ささは生活の豊かさに比例するという命題は必ずしも正でない、ということを証明したいのだが、やはり世界は数学で出来てはいるが、数学だけではできていないので、証明できないこともある、QED. という風に尻切れトンボ的に終わるほかない。これはミステリではないので犯人(に準ずるもの)もない。物語は続いていく、しばらくはその予定だ。なんでもないナンセンスを拾って料理した話だ。ゴミ袋の小ささは生活の豊かさに比例しても僕自身は面白いと思っているし、僕自身はそう思っている。それは僕自身がその問の証明であることと同義である、QED.
ナンセンスにナンセンスをぶつけたところを越えたさらにもう一段回上のナンセンスさを、星野源のYELLOWDANCERを再生させながら探している。
これまでは(大)のゴミ袋を買っていたが、これからの生活に期待して今回は(中)10枚を買った。
なんでもない、僕がゴミ袋を買う話