Voicecore Reading Poetrium『花 羽 音 』、土曜日の2公演を観劇してきました。
Voicecore Reading Poetriumってなんだろう?
って思ってホームページを見てみたら、
【About】
ILLUMINUS×淡乃晶による新作ライブパフォーマンスを行います。
Voicecore Reading Poetrium(ボイスコアリーディングポエトリウム)とは、
「声への探求、読む行為、聴く行為、読み取る行為、立ち上がる詩空間」です。
この企画は従来の朗読劇のフォーマットから離れ、
「声と言葉と音」を独自にコーディネイトすることで、
声を使った新たなパフォーマンスの在り方を模索する実験的ライブです。
クリエイションチームには
サウンドアーティスト「北島とわ」そして四名のボイスプレイヤーを迎え、
渋谷の交差点に浮かぶ会場にPoetrium『花羽音』を創造します。
と書かれていました。
「なるほど?観てないからわからないけど、一般的な朗読劇っぽくない朗読劇なのかな?」
そんな気持ちを抱いて2日目公演である土曜日に備えて金曜日移動しているころ。
「何もわからなかった」
「こわい」
「言葉の暴力だ」
「こんなの物語じゃない」
おおよそ朗読劇を観劇した人の感想とは思えないものがTwitterのタイムラインを飛び交っていました。
否定的な言葉が並んではいますが、おそらく作品の狙いとしては十分に正解だったのでしょう。
翌日観に行って届けられたものは、朗読劇とはかけ離れた、ライブと朗読劇を足して2で割った、物語を絡めた音声作品でした。
さて、まず触れておきたいのが、観に行ったものが何だったのかというお話。
Voicecore Reading Poetrium『花 羽 音 』。
勝手に「朗読劇」だと思っていて出てきたものが全く新しいジャンルのもので。
「音響を不断に利用した物語作品」かなと思っていましたが、蓋を開けてみたら「声優、舞台装置、そして物語までも利用した催眠系音声作品」でした。
催眠系音声作品といえば、何を思い浮かべるでしょうか。
最近だとASMR音声作品がそれに当たると思います。
ひと昔前だと同人催眠CDですかね。ちょっとえっちなやつ。
今回の作品はえっちではないんですが(それはそう)、言ってしまえば系統は同じものだったかなと思います。
物語や設定は置いておいて、この作品、人の内面を詩的な言葉にしたものを、声優と舞台装置、そして物語までを贅沢に使って、開けたはずの会場なのに雰囲気で椅子に縛らせて、強制的に聴覚情報によって脳、それも記憶領域を揺さぶる作品だったんですよ。
こう書けることから、本来の意味を考えると一種のASMRだと言えます。
それも、音声データでなくライブ形式の。
「言葉を聴かせる気があるパート」と「言葉を聞かせる気があるパート」と分かれていて。
前者はあくまで言葉を輪唱のように重ねたりディレイで頭に響かせたりして雰囲気を焼き付ける、
後者は決して明るくはない、意味を持った言葉を観客に理解できるようにエピソードを交えたり繰り返したりして詠う。
物語をオムニバス形式や会話形式で進めつつ、間に物語とは関係ない、しかし関連づけることもできる抽象的な詩を挟んできたり。
この聞いたこともないやり方全てが言い換えると、
感覚が近くないと理解されづらい詩を、
エピソードや具体的または抽象的な言葉を交え、
舞台や声優、物語を利用し、
わからないまでも確実に届ける、そしてわかりやすくして商業作品として押し付けるという、
普通やらない行為をされたということなんです。
ライブも生まれ初めはそうだったんでしょうね。
自分で書いた歌をメロディに乗せて歌って、あるいは歌わせて商業作品として届ける。
ぼくたちが、それが当たり前の文化になった時代に生まれただけで。
そして、観客がこういう公演だと知らずに来た人ばかりなので、この形式自体に賛否両論があるのは当たり前だと思います。
(詩や物語の内容が人を選ぶというのとは別の話)
公演後、詩のセトリが公開されているのを見て、この考え方が間違っていないと確信しました。
ちなみにぼくはこういうの大好きです。
ポエマーなので。
詩人の作品なんて自分勝手でいい、でないと詩人でない。
さて、そうは言ってもテーマ、というか物語が無いとただの詩の朗読で終わるわけで。
1つの作品として提供するための物語、というか設定(背景?)は用意されていました。
公式ホームページにはこう紹介されています。
part of HANABANE world
「華胥の街(かしょのまち)」 ここでは背中に花びらのような羽が生えた「メディ・ブーケ(花束人形)」たちが暮らしています。 メディ・ブーケとは、かつて人間として「呪い」を抱えていたものたちが自らの意志で花束になった姿。 様々な想いを抱えながら、メディ・ブーケたちは共同生活の日々を送っています。
結論から言うと、これは1本筋の物語ではありませんでした。
言ってしまえばそれぞれのキャラクターの紹介でした。
それも、彼女たちの抱えた呪いのエピソードを彼女たちの感覚で語られた言葉を並べることと、キャラクター同士の切り取られた掛け合いの場面を見せることによる。
ところで、先ほど触れたセトリ(構成)がこちら(脚本のツイートより引用)。
いつか愛しむ、幾つもの私へ
朝焼けの詩
花束アッサンブラージュ
声の灯り
○影迷路(ヴェルキ・サリィの会話)
◎ヴェルキの花束
夜のポエム
○逃げ水 tabula rasa(サリィ・シージの会話)
リキッド・ガールヒストリア
◎シージの花束
華の泳ぎ夢のあと
slow burn
カード・シャッフル・シークエンス
それは、単語以上物語未満でしかない字の羅列
○コール・レイン(シージ・トーニャの会話)
◎トーニャの花束
きみの爪に雨を塗る
○色に嘘をついた夏(サリィ・トーニャの会話)
◎サリィの花束
傷口がよく喋る
○トーニャ・フォールコンプレックス(トーニャ・ヴェルキの会話)
いつか愛しむ、幾つもの私へ(remix)
みず、ひかり、肌のいろ(voice core-)
想像の花束
i ou,
◎を付けたところがキャラクターのエピソード紹介、
○を付けたところがキャラクター同士の会話シーンの切取り、
その他が詩か◎や○の言葉を音として重ねた臨床のような一つの音声作品。
通常のライブで例えるなら、9曲の歌と16曲のインスト曲のような構成で。
一つの作品としての雰囲気を考えるなら全25曲、物語の世界観を考えるなら9曲を抑えればいいことになります。
(数えやすさの都合上、単位を「曲」にします)
また、そこまで言い切れる理由は、16曲のうちいくつかは脚本のnoteに既に投稿されているものであったり、他の音声作品にタイトルとして使われていたりするからです。
だから、物語の世界観を抑えるなら9曲でいい。
おそらくそれ以外を同時並行して解釈しようとするから、物語や世界観の解釈ができなくなる。
その物語や世界観も語られた事実以外は解釈が分かれる抽象的なものだけれども。
そして、9曲の順番に特に意味はないから、これは起承転結の物語ではなく、彼女たちの断片に過ぎない。
詩の途中で出てくる「fragments」という言葉のとおり。
さて、構成を書くだけでだいぶ長く書いた気がするので、一旦筆を置きます。
本当に触れたい内容は、それを前提とした「音響・照明の工夫」「選ばれた言葉やエピソード」「声優のそれらの演じ方」なのですが、特に後半2つが自分や周りのエピソードを踏まえてあまりにも長く、深く、重たいので。
また更新した都度掲載します。
〜後述用メモ〜
タイトルに半角スペースが入っている理由
曖昧に-どうでもよく-すること
自殺教唆
心の金庫の中身
共感性羞恥を狙ったエピソード
『i ou,』で花羽音をもがれた界隈のメディ・ブーケ
サリィを相良茉優が演じたこと、低温火傷
トーニャ×サリィ



