《白夜の向日葵》

《白夜の向日葵》

I'll face her 24/7.
That's like "a sunflower in white night".

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Voicecore Reading Poetrium『花 羽 音 』、土曜日の2公演を観劇してきました。


Voicecore Reading Poetriumってなんだろう?

って思ってホームページを見てみたら、


【About】

ILLUMINUS×淡乃晶による新作ライブパフォーマンスを行います。 

Voicecore Reading Poetrium(ボイスコアリーディングポエトリウム)とは、

「声への探求、読む行為、聴く行為、読み取る行為、立ち上がる詩空間」です。 

この企画は従来の朗読劇のフォーマットから離れ、

「声と言葉と音」を独自にコーディネイトすることで、

声を使った新たなパフォーマンスの在り方を模索する実験的ライブです。 

クリエイションチームには

サウンドアーティスト「北島とわ」そして四名のボイスプレイヤーを迎え、

渋谷の交差点に浮かぶ会場にPoetrium『花羽音』を創造します。


と書かれていました。


「なるほど?観てないからわからないけど、一般的な朗読劇っぽくない朗読劇なのかな?」


そんな気持ちを抱いて2日目公演である土曜日に備えて金曜日移動しているころ。


「何もわからなかった」

「こわい」

「言葉の暴力だ」

「こんなの物語じゃない」


おおよそ朗読劇を観劇した人の感想とは思えないものがTwitterのタイムラインを飛び交っていました。


否定的な言葉が並んではいますが、おそらく作品の狙いとしては十分に正解だったのでしょう。


翌日観に行って届けられたものは、朗読劇とはかけ離れた、ライブと朗読劇を足して2で割った、物語を絡めた音声作品でした。




さて、まず触れておきたいのが、観に行ったものが何だったのかというお話。


Voicecore Reading Poetrium『花 羽 音 』。


勝手に「朗読劇」だと思っていて出てきたものが全く新しいジャンルのもので。


「音響を不断に利用した物語作品」かなと思っていましたが、蓋を開けてみたら「声優、舞台装置、そして物語までも利用した催眠系音声作品」でした。


催眠系音声作品といえば、何を思い浮かべるでしょうか。


最近だとASMR音声作品がそれに当たると思います。


ひと昔前だと同人催眠CDですかね。ちょっとえっちなやつ。


今回の作品はえっちではないんですが(それはそう)、言ってしまえば系統は同じものだったかなと思います。


物語や設定は置いておいて、この作品、人の内面を詩的な言葉にしたものを、声優と舞台装置、そして物語までを贅沢に使って、開けたはずの会場なのに雰囲気で椅子に縛らせて、強制的に聴覚情報によって脳、それも記憶領域を揺さぶる作品だったんですよ。


こう書けることから、本来の意味を考えると一種のASMRだと言えます。


それも、音声データでなくライブ形式の。


「言葉を聴かせる気があるパート」と「言葉を聞かせる気があるパート」と分かれていて。


前者はあくまで言葉を輪唱のように重ねたりディレイで頭に響かせたりして雰囲気を焼き付ける、

後者は決して明るくはない、意味を持った言葉を観客に理解できるようにエピソードを交えたり繰り返したりして詠う。


物語をオムニバス形式や会話形式で進めつつ、間に物語とは関係ない、しかし関連づけることもできる抽象的な詩を挟んできたり。


この聞いたこともないやり方全てが言い換えると、

感覚が近くないと理解されづらい詩を、

エピソードや具体的または抽象的な言葉を交え、

舞台や声優、物語を利用し、

わからないまでも確実に届ける、そしてわかりやすくして商業作品として押し付けるという、

普通やらない行為をされたということなんです。


ライブも生まれ初めはそうだったんでしょうね。


自分で書いた歌をメロディに乗せて歌って、あるいは歌わせて商業作品として届ける。


ぼくたちが、それが当たり前の文化になった時代に生まれただけで。


そして、観客がこういう公演だと知らずに来た人ばかりなので、この形式自体に賛否両論があるのは当たり前だと思います。

(詩や物語の内容が人を選ぶというのとは別の話)


公演後、詩のセトリが公開されているのを見て、この考え方が間違っていないと確信しました。


ちなみにぼくはこういうの大好きです。


ポエマーなので。


詩人の作品なんて自分勝手でいい、でないと詩人でない。




さて、そうは言ってもテーマ、というか物語が無いとただの詩の朗読で終わるわけで。


1つの作品として提供するための物語、というか設定(背景?)は用意されていました。


公式ホームページにはこう紹介されています。


part of HANABANE world

「華胥の街(かしょのまち)」
ここでは背中に花びらのような羽が生えた「メディ・ブーケ(花束人形)」たちが暮らしています。
メディ・ブーケとは、かつて人間として「呪い」を抱えていたものたちが自らの意志で花束になった姿。
様々な想いを抱えながら、メディ・ブーケたちは共同生活の日々を送っています。


結論から言うと、これは1本筋の物語ではありませんでした。


言ってしまえばそれぞれのキャラクターの紹介でした。


それも、彼女たちの抱えた呪いのエピソードを彼女たちの感覚で語られた言葉を並べることと、キャラクター同士の切り取られた掛け合いの場面を見せることによる。


ところで、先ほど触れたセトリ(構成)がこちら(脚本のツイートより引用)。


いつか愛しむ、幾つもの私へ

朝焼けの詩

花束アッサンブラージュ

声の灯り

○影迷路(ヴェルキ・サリィの会話)

◎ヴェルキの花束

夜のポエム

○逃げ水 tabula rasa(サリィ・シージの会話)

リキッド・ガールヒストリア

◎シージの花束

華の泳ぎ夢のあと

slow burn

カード・シャッフル・シークエンス

それは、単語以上物語未満でしかない字の羅列

○コール・レイン(シージ・トーニャの会話)

◎トーニャの花束

きみの爪に雨を塗る

○色に嘘をついた夏(サリィ・トーニャの会話)

◎サリィの花束

傷口がよく喋る

○トーニャ・フォールコンプレックス(トーニャ・ヴェルキの会話)

いつか愛しむ、幾つもの私へ(remix)

みず、ひかり、肌のいろ(voice core-)

想像の花束

i ou,


◎を付けたところがキャラクターのエピソード紹介、

○を付けたところがキャラクター同士の会話シーンの切取り、

その他が詩か◎や○の言葉を音として重ねた臨床のような一つの音声作品。


通常のライブで例えるなら、9曲の歌と16曲のインスト曲のような構成で。


一つの作品としての雰囲気を考えるなら全25曲、物語の世界観を考えるなら9曲を抑えればいいことになります。

(数えやすさの都合上、単位を「曲」にします)


また、そこまで言い切れる理由は、16曲のうちいくつかは脚本のnoteに既に投稿されているものであったり、他の音声作品にタイトルとして使われていたりするからです。


だから、物語の世界観を抑えるなら9曲でいい。


おそらくそれ以外を同時並行して解釈しようとするから、物語や世界観の解釈ができなくなる。


その物語や世界観も語られた事実以外は解釈が分かれる抽象的なものだけれども。


そして、9曲の順番に特に意味はないから、これは起承転結の物語ではなく、彼女たちの断片に過ぎない。


詩の途中で出てくる「fragments」という言葉のとおり。




さて、構成を書くだけでだいぶ長く書いた気がするので、一旦筆を置きます。


本当に触れたい内容は、それを前提とした「音響・照明の工夫」「選ばれた言葉やエピソード」「声優のそれらの演じ方」なのですが、特に後半2つが自分や周りのエピソードを踏まえてあまりにも長く、深く、重たいので。


また更新した都度掲載します。




〜後述用メモ〜


タイトルに半角スペースが入っている理由


曖昧に-どうでもよく-すること


自殺教唆


心の金庫の中身


共感性羞恥を狙ったエピソード


『i ou,』で花羽音をもがれた界隈のメディ・ブーケ


サリィを相良茉優が演じたこと、低温火傷


トーニャ×サリィ

どうも、もっきぃです


今日は所要で名古屋市の熱田区に来ました。


名古屋にゆかりがまるでないので(2つの意味でゆりかのゆかりはあるかもしれない)、友だちに「熱田区の近くでどこかおすすめのお店とかある?」って聞きました。


するとごはん屋として帰ってきたのが「あつた蓬莱軒」と「麺屋 あべの」でした。


「あつた蓬莱軒」はひつまぶしが売りの超人気店で、ひつまぶしが4,400円、鰻丼(並)が2,950円と高級なお店。


今日は神宮店が11:00時点で4時間待ちだったため、断念しました。


ちなみに本店は本日まで設備工事のため臨時休業でした。


じゃあ気になるラーメン屋、「麺屋 あべの 神宮前店」の方に行ってみようかなと思い、伝馬町駅から15分ほど歩いて行ってきました。



着いたら8人待ちほど。


先に食券を買ってから店内、もしくは店の外に並ぶタイプのお店。


店内待合席は6人分ほど、さらに外に3人分ほど。


食券を先に買うタイプのお店だけあって、回転率は高く、並んで10分ちょっとで席に着けました。


席はカウンターのみで10席ほど。


提供まではだいたい席について5分ほどだったと思います。


今回頼んだのがこちら。



つけ麺<中>1,050円


お腹が空いていたため、<並>より100円だけ高い<中>を頼みました。


海老つけ麺やごまつけ麺もありましたが、今回は商品指定なしでおすすめされたため、ノーマルなものを頼むことに。


スープを混ぜていざ実食。


……美味い。


魚介系のスープだが、"濃厚" という言葉はこの商品のために作られたんじゃないかと思うほど、しっかりと味がついている。


濃い魚介スープが好きな人は間違いなく好きな部類に入るだろう。


濃いだけではない。


つけ麺は「どれだけ麺に味が絡みつくか」だと思うが、なかなか粘度が高い。


例えるならスープカレーぐらいの粘度はあると思う。


その粘度をもって麺に絡みつくスープ、当然味が染み込まないわけがない。


麺も表面が柔らかく、内側に芯が残っているような、まさにつけ麺のために茹でられた麺といった感じでまたスープとの相性がいい。


それ以外に特筆すべきは具、特にチャーシューだろう。


スープの中に側面1.5cm四方、7,8cmの長さをもつ、スープの中で一際存在感を放つチャーシューが「俺の湯船だ」と言わんばかりに居座っている。


つけ麺なのに、麺をつけるのに少し手間取るぐらいだ。


それだけの量のチャーシューが、トッピングなしについている。


これほど嬉しいことはない。


肉質も硬すぎず柔らかすぎず、一口ごとに満腹感を満たしてくれるようで、中身まで存在感を放ってくれる。


そんなチャーシューだった。


少しスープがぬるいと思ったのが気になったが、この一番左を見てほしい。



そう、なんと店の壁際にあるレンジでスープを温め直すことができるのです。


つけ麺を食べていて一番気になるところを、自分の力で解消することができる。


一番美味い温度のスープでつけ麺を味わってほしい、店長のそんな想いが伝わってくる。


今回は試してみていないが、左側に書いてあるとおり、割飯もスープ割も無料サービスとして提供される。


1食の値段は決して安い方ではないが、それだけの味とサービスを堪能できる、そんなお店だと感じました。


また熱田に来たときにはぜひ立ち寄ってみたい。

お久しぶりです。

 

こうやって何かしら文章を綴るのも、最近では手紙を書くときぐらいです。

 

だいたいA4用紙2~5枚で、溜めすぎたら24枚とかになったりします。

 

読むの疲れるし言いたいことの核が伝わりにくいのでやめた方がいいそれはそう。溜めるな。

 

 

 

さて、今日筆を握ったのはアニメイトタイムズさんから

 

冬アニメ『犬になったら好きな人に拾われた。』猫谷ミケ役・相良茉優さんインタビュー|ミケはこれまで演じたことがないほどに叫びまくるキャラクター。徐々に変化していくポチ太への接し方に注目!【連載第3回】

 

というインタビュー記事が出たためです。

 

この記事の相良さんの一部の意見に対して引っかかり、なんで腑に落ちなかったのかを延々と考えて、それを文字として起こそうと思っただけです。

 

特に相良さんに対して否定したい気持ちや物申したいことがあるわけではありません。

 

意見としては理解できますし、言ってしまえば質問や議題の捉え方が相良さんとぼくとで異なるだけです。

 

あくまでその意見を提示されて自分が思ったことを書きたいから書くだけです。

 

 

 

記事の中で、ポチ太のシチュエーションについて、会沢さんと梅田さんは「憧れ」という回答をしていたことが記されていました。

 

それに対する相良さんの意見が、「犬だと見ているだけで何もできない」というものでした。

 

またさらに、梅田さんは「部屋の観葉植物になって、見守るだけでもいい」という回答をしたそうですが、それに対する相良さん。

 

「それなら動ける分、犬のほうがいいんじゃないですか?犬でもラッキーなシチュエーションにたびたび遭遇しますし、「ワンちゃんなら仕方ないか」と許してくれそうですし。そこが男性のロマンなのでは?(笑)そう考えると会沢さんの意見のほうが賛同できるかも。見つめるだけなんてつらくないですか?透明人間になるのが一番いいとは思いますけど(笑)」(引用)

 

この2つの回答がどうしてもスッと頭に入りませんでした。(前述のとおり、捉え方の違いに尽きます)

 

 

 

語弊があるかもしれませんが、1つ目の回答を「役得だけど、人の姿じゃないから何もできない」、2つ目の回答を「ただ傍観できるよりも役得の方がよくないか」、と解釈しました。

 

ぼくが共感できなかったのは、前者含めてですが、特に後者です。

 

「捉え方の違い」と何度か言いましたが、前提を「既に関係ができあがっている女の子」とするか、「お近づきになりたい、未だ関係の浅い女の子」とするかだと思います。(ここで理解したら残りの記事は読む必要はありません)

 

相良さんはこのシチュエーションの前提を「既に関係ができあがっている女の子」と捉えて回答していると思います。

 

この場合、すべての回答に納得がいきます。

 

そりゃどういう経緯であれ、そういう関係が既にできあがっているのであればお互いが思うままにイチャコラしたいですよ。

 

自然な気持ちの上の行動であり、そこに葛藤なんて生まれる隙はないのだから。

 

ぼくはこのシチュエーションの前提を「お近づきになりたい、未だ関係の浅い女の子」と捉えながら記事を読んでいました。

 

この作品が、「"犬になったがために"、片想いの女の子に気に入られる」展開から入る物語なので。

 

 

 

「見つめるだけなんてつらくないですか?」

 

という相良さんのひと言。

 

"つらい" 理由はその想定と異なると思いますが、間違いなくつらい部分はあります。

 

"決して自分に向かない、いつか自分に向いてほしい表情" がそこにあるので。

 

ただ、犬になってそれを自分に向けられることの方が、

 

ぼくは余程つらいです。(※本作品の主人公はこじらせていないため、2話でヘコみつつも前を向いています)

 

"決して自分に向かない、いつか自分に向いてほしい表情" が「ポチ太だから」「自分ではないから」という理由で自分に向けられること、これほど残酷なことはないと思っています。

 

もし自分がそのようなシチュエーションに陥ったら、素直にその状況を享受できずに、罪悪感に苛まれ、「これは自分じゃなくてポチ太だから」「ポチ太じゃない自分に価値はない」と、塞ぎ込むでしょう。

 

いや、塞ぎ込みつつも相手を悲しませたくない一心で、本人の前では明るく振舞おうとするのかもしれません。

 

余計につらいですね。(※本作品の主人公は(ry

 

向けられるとびきりの笑顔が、自分に向けられたものでないなら、傍から眺めながら「かわいいなぁ」って思っておくのが、一番幸せなのかもしれません。

 

 

 

お気づきかもしれませんが、特に解説のつもりはなく、自分が違和感を抱いた理由を明確にするためにメモとして文字に起こしているだけです。

 

 

 

こだわりが強いオタク、中でも拗らせているオタクは特に同じように感じるかもしれません。

 

自分だけに向けられていると思っている何かに対して、ふと別の数名同じように向けられているのを知って、「あっ、これ "自分だから" じゃないんだ勘違いしてたわ、誰にでもあるんだ」みたいな。

 

ある女の子のオタクが、いつかこんなことを言っていたのを覚えています。

 

「"女だから" としか思えないから、ファンサ飛んできても嬉しくない」

 

まあ面倒くさいですよね。(おまいう)

 

でも、とても理解できるんですよ。

 

"私だから" じゃなくて "女だから" だし、そこにいたのが "私" じゃなくて "別の女" だとしても同じことしたんでしょって。

 

たとえそうじゃなくてもそう思ってしまう原因が拭えないから、素直に嬉しいと思えないから、でもどこか嬉しいと思ってしまう自分もいるから、それが嫌だって。

 

そういう理由で、ぼくはオタクの「女の子にはなりたい」という意見に一定の理解を示しながらも、決して共感はしません。(個人の考えを否定しているわけではなく、自分はそう考えられない、という話)

 

 

 

ここまで寄り道してみて自分でも気づいたんですが、果てに来る感情が「自己嫌悪」なんだと思います。

 

いろいろ言ってはきましたが、犬である自分に対して向けられるものを、本能的に嬉しく思うことが全くないわけではないと思うんですよ。

 

ただ何かを向けられるたびに「これでいいの?」と思ってしまう。

 

さっきの女の子云々の話をオタクで広くわかりやすく置き換えるなら、

 

"自分だから" ではなく "ファンだから" なんですよね。

 

……と、無理矢理持ってきてはみましたが、そもそも人と人との関係なんてアクション・リアクションの積み重ねなんだから、一般的に誰かに置き換わり得るのは当たり前の話なので、特に考える意味はないです。

 

 

 

作品のあるシチュエーションに対する考え方という、ただの雑談に対して何を面倒くさいことを考えているんでしょうね。

 

話を元に戻しますが、以上の理由でぼくは梅田さんと同じく観葉植物にでもなって傍から眺めていたいです。

 

自分がいない、自分を意識されない空間だからこそ、好きな犬に対して飛び切りの笑顔を向ける好きな子を、認知されることないまま眺めていられる。

 

とても夢がある話じゃないですか。

 

自分には向かないんですよ。

 

向いたら嘘です。

 

それを役得だと、素直に受け止められる図太さの神経は持ち合わせていない。

 

犬になる、というテーマで考えるのであれば、相手を知る前から犬として知り合いたいですね。

 

テーマもクソもないことを言った気がしますが、そういう考えです。

 

ここまで書き殴って頭の中がすっきりしました。

 

わざわざここまで読んでくださった方はほぼいないと思いますが、

 

「へぇ、こういう考え方の人もいるんだ」

 

ぐらいの暇つぶしにでもなっていれば幸いです。

 

終わり。

お久しぶりです。


「ひまわり」、このブログのタイトルが『白夜の向日葵』なんですが、それと似通った話です。


『白夜の向日葵』は、「決して沈まない太陽に四六時中顔を伸ばす向日葵」であり、絶えず照らされ、輝きに向かって手を伸ばし続けることの喩えで。


今日昔の斉藤朱夏同担に連れられ「朱演2022 LIVE HOUSE TOUR 「キミとはだしの青春」に参加しました、結論を言うと、ぼくにとっての太陽は斉藤朱夏だったという話。




噂には聞いていたけど、斉藤朱夏のライブはガチガチのライブハウスでオルスタでアガる現場でした。


モッシュとリフトとダイブがないくらい?でその辺のロックバンドがやってそうな感じの現場でした。


RGRとかcircle fireとかでオルスタ現場は主現場でなしにもちょいちょい行ってたので雰囲気と楽しみ方は十分理解してたけど、今までで一番体力持ってかれたライブでした、いや楽しかった。


それが楽しかったのは単にそういうライブが好きだからで終わる話なのでそれは置いておくとして。




開幕からぼくが知っている斉藤朱夏がいなかった。


むしろぼくが見ていたころ、最後に役のない彼女を見たのは週1か月1の生放送か、現場ではThe First Timeかだったんですが、そのころは「Aqoursで渡辺曜役をやってるしゅかしゅーだ」って印象でした。


今日見たあれは誰だ。


1曲ごとに「ありがと♡」ってイタズラっぽいキャラで、観客を沸かせるあの女は誰だ。そんなのは知らない、どこで身につけた。


喋り方や煽り方が完全にガールズバンドで慣れ親しんだろう佇まいで、役を脱ぎ捨てて等身大の周りを巻き込む陽キャがそこにいて。


完全にアーティストとしての "個" を確立している声優アーティスト「斉藤朱夏」がそこにいた。




知る人ぞ知っているけど、もともとぼくは斉藤朱夏推しで。(推し、と定義すると今とは全然別の方向性だから広い意味で捉えてほしい)


土足で踏み込んで引っ張っていってくれる人に惹かれやすいんですよね、これは最近のぼくの傾向とは外れるからしっくり来ない人も多いかもしれない。


さて、そんな "元々推してた" 人を見るとどうなるかって、善し悪しじゃなしに、

比べるんですよ、単に、違いを。同じところを。




MC聞きながら、ずっと思ってたのは

「語彙力という言葉に失礼なほど語彙がないけど、それでも、それなのに、気持ちの一つひとつが全部、痛いほどに伝わってきて、語彙のなさがむしろ本人が必死で思ったことを伝えようとしてくれている、その間で、その表情で、その目で、その声で、それが言葉が出てこなくても伝わってくる」

ということ。


今でこそ今のぼくの推し(相良茉優さんっていいます、よろしくお願いします)も語彙力はだいぶない方で、それでもたぶん斉藤朱夏よりは若干ある方なんですよね。


で、どっちもMCで空気切り替えるタイプの人です。


今の推しにないものとして、斉藤朱夏には『しゅか通信』というタイトルのブログがあります。


めちゃくちゃ不定期更新で、昔は更新来るたびに

「しゅか通信だぁぁぁあああああ!!!!!」

って叫んでたっけ。


ぼく毎回あの記事に救われてたんですよ。


それこそ「語彙がないのに気持ちが伝わる言葉」で。


今日のMCもそう。


対して、今の推しにはどう思っているかというと、

どんなことを言ってくれるんだろう、

って構えてるんですよね。


最近でこそめちゃくちゃ上手くなってきてるんですよ、まゆちのMC。


たぶんこれは聞いてる人はわかるとおもいます。


が、

「上手くなってきている」

が正直な評価なんです。


言葉上全然悪くない評価ですが、

つまり目線が違うんです。


烏滸がましいことに。




もう1つ、大きく衝撃を受けたのは途中の朱夏のMCでのひとことです。


「ツアーでいろんなところ行くけど、無理しちゃだめだよ」


ここまで、近いことを今の推しも言っています。


その後のひとことが、


「いつも無理しないでねって言ってるけど、無理しないでねって言うのは、こうやって絶対に会いに行くんだから、それまで待っててねっていう意味なんだよ」


なんですよ。


いや、

そんなもん確約できるはずがないし、

それを、次を無心に信じれるほど単純じゃないんですよ。


でも、

それでも、

そのひとことをファンの前で言える斉藤朱夏が強すぎる。


「私が頑張ってなんとかするから、安心して待ってろ」


なんて、普通言えないですよこのご時世に。


冷静に側から見たら何を言ってるんだってなる言葉ですよ。


でもその言葉が、

何より救われるんですよ。


だってファンなんだから。




さて、ここで "ファン" という言葉を使いました。


ファンってなんなんでしょうね。


無心に楽しませられたらファンなんですかね。


支えたいって思って動く人がファンなんですかね。


ぼくにとって前者の立場でいられるのが斉藤朱夏で、

後者の立場でいられるのが相良茉優なんですよ。


間違いなくただ楽しむだけなら斉藤朱夏追いかけておいたらいいんですよ。本当に。


で、それをしなかったのはおそらく、

自分がいなくても他に支えてる人がいくらでもいるから、

なんですよね。


だって楽しいのにそれ以外に理由なんてないですよ。


なんなら本人に一つも非なんてないし、評価の分かれたデビュー当初の曲からだって全部好きですよ。


たぶんぼく関係性依存に陥るタイプなんです。


オタクとして本当に良くない。地下に行け。


つまるところ、途中で能動的なオタクがぼくしかいない界隈に入ったのが全ての始まりだったんだと思う。


別にネガキャンするつもりは1㍉もないので詳しく言葉にすることはないんですが、つまりは「楽しめる」か「支えたい」かの違いでしかなくて。


今の界隈でもオタクによってはだいぶ分かれるんですよね、この2タイプ。


後者を「オタクのくせに烏滸がましい」と宣うならオタクタイプ理論として近いことを推しも言及しているので推し批判です、ざまあみろダブスタがすっこんでろ。


いや、オタクがオタクを批判するっていうしょうもないのはどうでも良くて、スタンスはオタクそれぞれで良くねって話。逸れた。




今日の公演で斉藤朱夏が1曲、歌唱中に歌詞が8小節ぐらい飛んで、その間オタクが手拍子で応援しつつ紛らわしてて、その間の朱夏の表情が本当に真剣で吹っ切れてて。


終わった後に


「助けてくれてありがと」


って言ったんですよ。


いやなんだこれ。


歌い切ることが理想でやるべきことだとしても、

立て直してその後完璧に歌った挙句、ここまで観客を取り入れてそのひとことが即座に出るこのアーティストはなんだ。


終始怖かったんですよ、「かわいい〜」ってケタケタ見てたはずの斉藤朱夏が、確実にある一定の層を引き込む大きい存在になってるのを認めるのが。


ファンに「自分にとって必要だ」と声をかけ、空いた歯車を埋めるように誘導するのが上手いことが。


そして、それが自分にとって何よりも気持ちいいことが。


たぶん、通った中で一番楽しめる現場だと思う。




さて、ここまで書いた上で自己認識として向き合う必要があるのでちゃんと言及します。


今の推しがそういう存在になるまでは今の場所を大切にします。


ぁ、もしくは推しか自分が幸せになるまでで()


結局向き合って自己自認をした上でその選択を取ることを当初から決めてるので、そもそもぼくは一途なんですよ。


誤魔化したくないからちゃんと周りと自分をなるべく言語化して評価してるだけで。


一部のオタクは呪いだと揶揄しますが、上の話からすると呪いとしてその場を離れられなくなるとしたら朱夏の方なんですよ。


だから「一刻も早く抜け出したいと思うほどに楽しかった」が今日の感想です。


理由はそこに居続けることが楽しいと理性が納得することを避けたかったからです。


今の場所を離れられないことを呪いと言うなら、それは間違いなく自分が自分に施した呪いです。


踏み込みすぎて「自分が納得しない形で離れると後の人生で後悔する」から離れられないという呪いです。


楽しくないわけじゃなくて楽しいんですよもちろん、そうじゃなかったらここにいない()


いや、たぶんそういう話をしたらどこ行っても大抵楽しいんだと思います。


理由はなんにせよ、見ていたいから見にきてるなんだろうなと。




そんな感じです。


いつものまとまりないやつ〜。


ただ、

(どっちの意味でも)推しが幸せになる前に自分だけ幸せになるぐらいなら、

オタクやらなくていいやって思ったので、

ぼくができる程度のことで少しでも推しが救われることがあるなら頑張っていこ、

って思いました。


おわり。


何も終わってない。


むしろ始まってない。急げ。

ご無沙汰しております。


ひさびさに筆を載せようかと思い。


さてさて、先週7月2日(土)に『指出毬亜の指出とサシで~SASHIDAY~』(以下、「さしさし」とする。)が催されてましたね。


この記事書こうかなってなったきっかけはこのイベント——自分は参加したわけではない——なんですが、指出さんの冠番組の初イベントなんですよね。


タイトルのとおりの話にはなるんですが、このときファンから贈られたフラスタが12基、それもどれも単独なんです。


これ "自界隈から見て比較的すごい" んじゃなくて、おそらく殆どの界隈が見てもあり得ないと思うぐらいすごいことだと思います。




そもそもフラワースタンドってなんのために贈るのか、って話からしていこうと思います。


新装開店祝いだったりでよく目にするごく一般的なスタンド花が、アイドル・アニメ・声優イベントの現文化であるフラスタに転じたと考えれば「お祝いの気持ちに花を添えるため」、これに尽きると考えています。


「応援」や「見て楽しんでもらう」、「賑やかし」、「他界隈から見た規模感」、「関係業界からの評価」などは自分も言っていますしオタクや一部業界もよく取り上げますが、はっきり言うと二の次です。


しかしながら二の次とは言え、"そう捉えられている側面" があるため、全く無視できない、むしろ意識して取り入れていくべき要素だと思っています。


「お祝いの気持ちに花を添えるため」


とにかくこれが起源であり根幹です。




さて、それを踏まえて "二の次" の話をします。


ある町で隣同士で同時に開店したパン屋がありました。


片方のお店には「祝御開店」と札に書かれたたくさんのスタンド花が置いてあります。

一方もう片方のお店にはスタンド花が全くありません。


美味しさや接客の良さ、店内の感度などほとんど同じだとすれば、おそらくその "もう片方" は廃れると思います。


人の大半は "わかりやすいものに食いつくから" です。


「自分は」の感覚で他の人が動くなら苦労しないです。


協賛型フラスタの "協賛者の数" にしろ、グループフラスタや個人フラスタの "花そのものの数" にしろ、規模感をわかりやすく表す指標には違いないんです。


ちなみに声優の場合、同じ声優だとしてもコンテンツによってあからさまに規模感が変わるので、そういう意味でもわかりやすいと思います。


何が辛いかって贈った相手が一番それに気づきやすいのがなんとも皮肉めいてますよね。


「フラスタ・楽屋花が置けるイベントで他の共演者には全員それぞれ会場にお花が添えられているのに、自分の推し宛のお花だけがない」


ということになる——違いますね、ということにするよりは遥かにマシですが。




さて、話を元に戻します。


さしさしが指出さんの冠番組の初のお花を贈れる現地イベントだと思っていますが、相良さんの冠番組の初のお花を贈れる現地イベントは『まゆちのおそとゲーム 第1回おそとフェス』(以下、「おそと」とする。)です。


その際のお花が個人楽屋花3、グループ楽屋花1、協賛型フラスタ1の計5、番組開始から7ヶ月後のイベントです。


対するさしさしが個人フラスタ12基、番組開始から6ヶ月後のイベントです。


おそとの方が「さがらFFF公式Discordコミュニティ」が動き始めて約半年という点を踏まえて考えると、"さしさしのお花の量がいかに多いか" がよくわかると思います。


ところで斉藤朱夏さんの『The First Time』という本人名義の初の現地イベントにもお花を出したことがありますが、あのときは企画から個人まで含めフラスタだけで15前後だったと思います。


あのときの斉藤朱夏界隈は全盛期かというぐらいに相当盛り上がっていたので想定やや上ぐらいな感覚ですが。


そう思うとさしさしのお花の量はいい意味で異常なんですよね。


個人でフラスタを立てるってイラスト発注の有無、パネルの有無や構造の特殊さに関わらず最低でも15,000円から20,000円はかかるので、それを12人もがやってるの、本当にすごいことだと思います。


ところで、こういうことをあえて書くと刺されないですかって心配してくれるオタクいるんですが、刺すようなオタクは今までの話をわかった上で花を出してるから少なくとも名を挙げながら刺されることはないです。




さて、だいたいの話は終わったのでFSBの話をしようかなと思います。


FSB——Flower Stand Battle——とは、文字どおり "フラスタで殴り合うこと" です。


「お祝いの花で殴り合うんじゃあないよ」という人も、特にこの界隈には多いと思いますが、ぼくも人から聞いた話が前提なので「そんなのがあるんだへぇ」ぐらいの感覚でフラットに聞いてもらったらいいかなと思います。


元々FSBは "推しにどれだけ素敵なお花を贈れるか" という、界隈内個人間の競争という意味合いで極々一部で冗談めいて使われているだけの言葉です。


(ほぼ協賛型しか贈ったことがないのでこれに関してはぼくは一切当てはまりません)


ただ、そういう感覚が発生する界隈ってそれだけ活気があるってことだと思います。


それこそ男性声優や歌い手等の界隈の女性方にはそういう側面大きいですし、個人で出す花の量と規模が段違いです。


「ないよりは」派なのでそこにどんな気持ちが介在してるかは、個人フラスタの場合は他人がどうこう言うことではないと思っています。


単に現場が活気付いてるかどうかが "外から" わかる指標だという話。




さて、FSBを「界隈内個人間の競争」という意味合いで作られた造語だと紹介しましたが、FSBには別の側面があると考えています。


それが今回の話の本質ですが、もう少しマクロな視点で俯瞰して見たときに見える「同コンテンツ内界隈間の競争」です。


「俺の推しはすごいんだぞ」と、祝いの花を以て示すんですよ。


1基の協賛数でも、単に花の数でも、花そのもののコンセプトと解釈と表現方法でも。


それでいてお互いを高め合ってより素敵な贈り物を、と各々の界隈が動くんです。


お気づきの方がいるかと思いますが、これ何かっていうと


「虹ヶ咲のコンセプト」そのものです。


ぼくがそれを重視するようになったのは、ぼくが初めてフラスタを贈り出したのが虹ヶ咲だったからだと思います。


最初からそうですが、KMFのときに各界隈のフラスタ企画TwiPlaページの一覧を固定ツイートにしてないところに煽ったり、スマプリでも声をかけたりとしています。


で、なんでそんなことするかって言ったらやっぱり


「他の人には花出てるのに自分の推しに花出てない」


のって嫌じゃないですか。


それこそ1回、これは以前も書きましたが、2019年11月17日(日)に開催された『Kleissis Resonance~with 温泉むすめ~』で実際に相良茉優宛の花だけ出ていない、ということをやらかしているんですよ。


だからぼくは自発的に贈りたいとき以外は、誰かが「贈る」と宣言しない以上は贈り続けています。(贈れないときに額縁で贈るのは、無理しすぎた面もあり、物によって選ぶことにしました。撮影依頼費、印刷代、発送費が追加にかかるのにその分仕方なく協賛が減るという二重負担が発生する上、周りの満足度も上限があるからというところで冷静に判断しています)


だからそんな心配をしなくていいように、そんな心配を推しにさせなくていいように「誰も贈らない」なんてことが想像できないくらい、たくさんの人がお花出すだったりこの人たちなら出すだろうって人たちが出てきたらいいなって思います。




推しのために。