岩井俊二監督の作品で最初に目にしたのは、東京少年「陽のあたる坂道で」のプロモーションビデオだった。
アーティストの演奏シーンやライブ映像が中心だった当時のPVの中で、ストーリー仕立てでかつボーカル笹野みちるのドキュメンタリー的要素も加わったこの作品は強く印象に残り、あらためて「東京少年」というユニットの魅力を感じさせた。

舞台は京都。大学を卒業し東京へと旅立つ笹野のために、仲間たちは畳一畳分はあろうかというメッセージボードを作り上げる。
友人への思い、励まし、別れゆく寂しさ。
思い思いの言葉が書かれたボードを抱えて、彼女は東京へと向かう。

彼女の小さな体に比べ、大きすぎるほどのボード。
時に嬉しそうに、時にもてあまし気味に、それを背負って彼女は歩く。

一体あのボードは、何を暗喩したものだったのだろう?

「ハイスクール・デイズ」「レンガの学校」そして「陽のあたる坂道で」。笹野みちるの書く曲には学校をテーマにしたものが多い。ただ、どの曲にも共通してその集団の中での「居心地の悪さ」のような思いが感じられた。
そして、おそらくはその感覚に共鳴した人たちが彼女らのファンの多くを占めていたのではないかと思う。

この曲が発売された翌年、1991年9月、東京少年は解散。
そしてその4年の後、笹野は自身の著書「Coming OUT!」で同性愛者であることをカミングアウトした。

自分もそれなりにファンだったので、早速購入して読んだが、不思議と驚きはなかった。「ああ、そうだったのか」と思った。
それが全てではないにしろ、彼女が背負っていたもの、居心地悪そうにしていたことの理由のひとつが分かった気がした。

解散から17年が経った2008年11月、東京少年は吉祥寺の曼荼羅2で一日だけ再結成ライブを行った。
実を言うと、東京少年が現役で活動していた頃、生で見たのは地元で行われたコンテストでのゲストライブだけだった。
だから、あらためて再結成ライブに行って、初めてそこに集まった人たちを間近に見た。

あぁ、こんな人たちだったんだ。
僕も含めて、当時東京少年が発した思いに共鳴した人たち。
解散から17年の時を経て尚、彼女らの音楽を求める人たち。
うまく言えないけど、その日、吉祥寺の老舗ライブハウスには、同じような思いを抱えた人たちが集まっているように感じた。

ライブの最後、「陽のあたる坂道で」を歌って彼女は言った。「30年後にまた会いましょう!」
苦笑した。その頃は、出る側も見る側もいいおじいちゃんとおばあちゃんになっているはずだけど、その時もまだ「坂道」にいるんだ。

そうだね。上り坂か下り坂か、転げ落ちているのか踏みとどまっているのか、それは分からない。
ただ、暗闇の中から抜け出し、陽のあたる場所に行ったとしても、きっと僕たちが立っているのは平坦な場所ではないんだろう。

彼女らしいと思った。僕たちに似合いだと思った。
もとよりなだらかな場所でのんびりと暮らすことなんて考えていない。
東京少年の音楽に共鳴し、自分の中にある心の声に気付いてしまった時から、たぶん僕たちは、ずっと坂道のただなかにいることを選んできたのだ。