保育所時代、娘と仲が良かったLちゃんが、

最近、学校に行けていないらしい。

そんな噂話を、数日前に聞いた。


「色々あるよなぁ滝汗」と思いながらも、

同時に、

『学校=行く所』

という、自分の中の昭和の価値観を、目の前に突き付けられた気がした。


「行き渋り」という言葉も、どうにも引っかかる。

まるで、

「行くのが正解」で、

「渋る側」に問題があるかのような響き。


その違和感を抱えたまま、

もし娘に

「学校に行きたくない」

と言われたら、私はどうするだろう。

そんなことを、ふとした瞬間に考える日が続いた。


誰にだって、疲れる日がある。

理不尽な日もある。

理由のはっきりしないモヤモヤを抱えたまま、

教室に座っている日だって、きっとある。


今は、

フリースクールやオンライン授業など、

「学校に行かない」選択肢も、以前よりずっと見える場所にある。


それでも、大人には

「教育の義務」がある。


子どもに無理をさせてまで、

「学校」という形に当てはめるべきなのか。

それとも、

形を変えてでも「学び」を守るべきなのか。


そんなことを考えていた時、

ふと、昔の記憶がよみがえった。


中学2年の時の、化学の先生。

体育会系で、

「知ってるってことは強いんだ」

が口癖だった。


「燃焼の三要素」


そんなものを知らなくても、

ロウソクの火を息で消したり、

キャンプファイアーに水や砂をかけて火を消したり、

人は生きる中で、自然と“知恵”を身につけていく。


でも――

「熱」「酸素」「燃える物」

この3つがなければ、火は燃えない。


君たちは今日、その“知識”を手に入れたんだ。


生きて知恵をつけろ。

学んで知識をつけろ。

そのために、先生を利用しろ。


知ってるってことは、強いんだ💪


そんな先生だった。


カエルの解剖では、

男女合わせて数人が泣いた。

授業中に居眠りしていた生徒が

朝練のせいだと分かると、

バレー部の顧問に向かって、


「成長期に筋トレさせ過ぎると背が伸びない。

将来のバレー選手を失うぞ」


そう怒鳴った、という話もある。


あの先生の授業が、

楽しかったかと言われれば、正直よく分からない。

でも、

「学ぶことは、生きる力になる」

その感覚だけは、今も私の中に残っている。


学校に行くことが、すべてではない。

でも、学ぶことは、生きていく上で、確かに力になる。


その“学び”を、

どこで、どうやって、誰とするのか。


それを決める時、

主役はきっと、親ではなく、子どもなのだと思う。


玄関でランドセルを背負い、

靴を履きながら、今日の予定を話す娘。

昨日の給食の話や、

友だちとの何気ない出来事を、

当たり前のように話してくる。


その姿を見ていると、

「今は行けている」ことが、

いつまでも続く前提で考えてしまう自分がいる。


でも、もし――

いつか娘が立ち止まり、

「学校に行きたくない」と口にしたら。

学校に行くか、行かないかよりも、

この子が、

「自分の気持ちを話していい」

と思える場所であること。


今日も何事もなく帰ってきて、

ランドセルを下ろし、

「ただいま」と言う娘の声を聞きながら、

そんなことを思った。