その昔、20世紀理解のためにと『全体主義の起原』に挑んだものの、息が続かず尻尾巻いてキャンキャン鳴きながら逃げた記憶を引きずりながら、『ハンナ・アーレント』を観てまいりましたのは、もう半年ばかり前のことだったでございましょうか。いまさら感想を書きます。恥の多い人生を送っておりますWIMPです。皆さまいかがお過ごしですか。わたしは惰性で生きてます。
ハンナ・アーレントは、マルティン・ハイデガー、エドムント・フッサール、カール・ヤスパースに師事、とくにハイデガーとは恋愛関係にあったとか、ドイツから逃れた先のフランスで抑留キャンプに収容されたものの混乱に乗じて脱走、夫とともにアメリカに亡命したとか、そのとき一緒に亡命するはずだった友人ヴァルター・ベンヤミンは別ルートをたどることになり、その後出国不可能と悟って山中で自殺したとか、もうドラマになりそうな出来事てんこ盛りの人生を送った人なんだけど、この映画はそういう「アーレント一代記」ではなく、アイヒマン裁判の傍聴記をめぐって起こった騒動の一点に絞られている。そしてその語り口はごくごくオーソドックスで、観る者が思いもよらないような破格の映像を提供して驚かせるようなタイプの映画ではない。つまり、ハンナ・アーレントという人がどんな人生を送ったかではなく、問題に対峙するひとりの「考える人」の思考とその姿勢を、抑制のきいた演出で描くことで、観る者になにごとかを伝えようというタイプの映画なわけだ。だから、この映画から受け取ったものについて書こうと思う。
まずは、ストーリーをざっくりと。
1960年、「ユダヤ人問題の最終解決」の実行責任者(収容者の移送に関わっていた)であったアドルフ・アイヒマンが、潜伏先のブエノスアイレスでモサドにより拘束され、イスラエルで裁判にかけられることになった。ユダヤ人で、自身抑留経験のある政治哲学者ハンナ・アーレントは自ら志願し、『ニューヨーカー』誌の特派員として裁判を傍聴。その記録を誌上に発表したところ、激烈な非難にさらされる。多くの友人を失い、イスラエル政府からは圧力をかけられ、さらに勤務する大学から辞職を迫られたアーレントは、学生たちへの講義の場で、はじめて公に説明を試みる。
さて、映画を観た後、『イェルサレムのアイヒマン』筆禍事件については概要を知っていただけという不甲斐ないわたしは、なんとお勉強しようと図書館に赴いた。いつも「調べものなんてしない」といい放っているわたしとしては、異例の事態である。『イェルサレムのアイヒマン』のなにが問題で、記事を書いたアーレントがあれほど猛烈に批判されたのか、そこのところを知りたかったのだ。
が、『イェルサレムのアイヒマン』をはじめ、アーレント関連書籍は軒並み貸し出し中。そして半年経ったいまでも、なんとその状況は変わっていない。映画の効果ってすごいね。予約もまだ何件か入っていたのでいいかげんあきらめてお勉強なしで手を打つことにした。・・・・・・お勉強がイヤなんじゃない、教科書がなかったんだ!きっといいわけに見えるだろうけど、ホントなんだ!!
ということで、お勉強しなくてすんだできなかったのだが、まあ映画からわかる範囲で、問題とされた点を押さえておこう。
(以下、セリフの細かい部分は、わたしに内臓されている記憶装置はあてにならないことこの上ないので、外部記憶=YouTubeに頼った。これ、全編アップされていたけど、字幕がハングル。ドイツ語どうすっかなーと思ってネットで探してみたら、なんとおあつらえ向きに、ドイツ語部分を英訳したスクリプトが見つかったので、それを参考にした。とはいえこれはドイツ語部分のみで、英語のセリフはすべてカットされており、さらに誰のセリフか明記されてないわ、区切りもないわでひっじょ~に読みにくいのだけど、もし興味がおありの方は、こちらを→Springfield! Springfield! ・・・・・・とかいっているうちに日本版DVDが出ていた模様。まあ、購入の予定のない方もいらっしゃるかと思い、残しておきます)
さて、問題になったのは次の2点。
1. 「ユダヤ人コミュニティの指導者は、ほぼ例外なくナチスに協力しており、そのため犠牲者の数が増えた」と書いたこと。
2. 「アイヒマンは邪悪な意志をもってユダヤ人を虐殺した悪魔ではなく、法律に従う平凡な役人で、自分の業務がどういう結果につながるか、考えようとしていなかった」と指摘したこと。
それがどのように問題視されたかは、周囲の人々の反応を見てみればある程度わかるだろう。
ニューヨーカー誌の編集会議で、「ユダヤ人指導者は、ほぼ例外なく、何らかの形でナチスに協力していた。それがなければ死者も450~600万人まではいかなかっただろう」という箇所を読んだ編集者のひとりが「被害者であるユダヤ人を非難している」と指摘する(編集長は「一部の指導者と被害者とを明確に区別している」と返すのだが)。
アイヒマンが「平凡な人間である」としたことがどう受け取られたかは、発表前の原稿を読んだ、学生時代からの友人で哲学者のハンス・ヨナスの反応を見ればよいだろう。彼は「アイヒマンは怪物だ。悪魔的な頭脳と力がなくとも、怪物のようにふるまうことはできる」といい、「君はあいつを許すとでもいうのか」と問う。
一般的な水準以上の読解力のある人々にさえ、そのような読みを許してしまったということで、その後の騒動もおして知るべし。ニューヨーカー誌では、アーレントの長大な論考を5回に分けて掲載することにしたのだが、その連載第1回が世に出た途端に編集部には抗議の電話がジャンジャンかかってくる。最後まで読みもしていない人々から。実際、記事が世に出る前にニューヨーカー誌が危惧したのは、ユダヤ人指導者のくだりの一点のみだったのだが、蓋を開けてみると、この二点がまずいことに複合して(というかおそらくは悪意をもって組み合わされて)、「被害者であるユダヤ人の罪を言いたて、怪物であるべきアイヒマンを平凡な人間とすることで、その罪を軽微なものにし、免罪しようとしている」ということになってしまったらしい。
今では広く受け容れられている、理解しがたいほどの巨大な悪と、それを可能にした人間の平凡さを結びつけることで得られた「悪の凡庸さ」という概念が、当時どれだけ理解されなかったかということに驚かされるが、それほどまでに誰も思いもよらなかった概念だったということがよくわかる。
公判中、アイヒマンが自分自身はだれも殺していないし、ユダヤ人に憎悪はないと主張しているという点について、アーレントと旧友クルト・ブルーメンフェルトが議論する場面がある。ブルーメンフェルトの見解は、「アイヒマンは言い逃れをしている」、つまり、ユダヤ人虐殺に加担した者ならば必ず反ユダヤ主義者であるというもので、先に挙げたヨナスの考えもこれと同様。彼らにしてみれば、ユダヤ民族を根絶しようとした組織で責任ある地位にいた人物が、反ユダヤ主義者以外ではありえない、反ユダヤ主義者でなくて、なぜ殺人機関の命令を平然と実行できるのか、ということだ。ユダヤ人としての感情を差し引いても、「平凡な人間」の行いは「平凡な行為」であり、「怪物的な行為」を行うならその人間は「怪物的な人間」であるというのは一般的に受け容れやすい考え方ではある。
しかし、アーレントはその図式は必ずしも成立しないという事例をアイヒマンに見て取り、「悪を為そうと意志することなく想像を絶するほどの悪が為され、その担い手がとくに悪人である必要はないような悪のかたちがある」ということ、そしてそのような、極端ではあるが「深くも悪魔的でもない(その意味で「凡庸」というのだと理解しております)悪」を可能にしたのが、平凡な人間の、まさにその平凡さだったということを指摘した。
「一般的には悪魔的と見なされがちだが、アイヒマンには悪魔的な深さがない。彼は思考不能だった。愚鈍というのとは違う。彼が20世紀最大の犯罪者となったのは、彼が思考不能であったからだ」とアーレントは書いた。
「思考不能」というのは、「ものを考える能力がない」=「愚鈍」ということではなく、知性があり、考える能力がありながら、考えないということだ。自分が何をしているのか、自分の行為がどんなことにつながるのか、思考によって認識しない状態に陥ること(自分が裁かれている法廷でさえ、「お役所言葉で決まり文句を繰り返す=自分の言葉を話していない=考えていない」アイヒマンは、自分は無罪であると本気で信じていた)。悪魔的ならぬごく普通の人間が自分の業務についてなにも考えず、与えられた仕事を事務的にこなした末に巨大な悪につながったというのが彼女の主張。
こんなことをいわれると、誰も安心してアイヒマンに石を投げることはできなくなる。
アイヒマン裁判のレポートに期待されていたのは、反ユダヤ主義の極悪人が犯した罪の責任を問われるという、「正義は勝つ」的展開だったのかもしれない。だれもが容易に納得でき、かつ自分たちは悪魔の化身のような彼(ら)とは絶対に違うと保証してくれる根拠となるようなレポート。しかしアイヒマンがごく普通の人間であるならば、ごく普通の人間である自分たちとの間に決定的な隔たりはなくなる。さらに、「被害者」側のユダヤ人が「加害者」側のナチスに協力していたのだとすれば、「被害者=一方的に善/加害者=一方的に悪」という図式がなりたたなくなり、「被害者側の立場に立てば自動的に悪と自分を容易に切り離すことができる」という道は封じられてしまう。そりゃ感情的な反応も招くというものだろう。
というわけでか、雑誌編集部どころか自宅にまで抗議の手紙が山のように送られてくる、同じアパートの住人からは"DAMN YOU TO HELL DU NAZIH××E"(「地獄に落ちろ、このナチの〇売」・・・・・・あまりといえばあまりな言葉なので一部伏字にしました)と書かれたカードが届くなど、たいへんな騒ぎとなる。夫や親友はこの状況を危険視して、誤解を解くように忠告する。はじめのうちは「読んでもいない人のいうことなど相手にする必要はない」と沈黙するアーレントだったが、イスラエルから圧力がかかり、かつては議論する喜びを分かちあったブルーメンフェルトから「もう君と一緒に笑いあうことはできない」と拒絶され、大学からは辞職を勧告されるにいたって、公に説明することを決意する。
それで、この映画の白眉といえるスピーチを行うのだけど、これが本当に素晴らしい。どう素晴らしいかはもう観ていただくに限るのだけれども。
アーレントは英語でスピーチを始める。彼女の英語には、母語であるドイツ語が響いていて、これがいい。はじめのうちこそ用意した原稿を読み上げているが、そのうちに原稿を離れて教壇の上を歩きながら(考えをまとめるときに、部屋の中だろうとどこだろうと歩き回る人って、けっこう多いと思うのだけど、どうだろう?)話し始める。家庭内や親しい友人の集まりではドイツ語で話している彼女にとって英語は第二言語であり、そのおかげもあると思うのだが、彼女がドイツ訛りの英語で、言葉を選びながら、誠実に話す様子は、ハンナ・アーレントという人がなによりもまず「考える人」なのだということを印象づける。
内容的なことをいえば、このスピーチには、これにいたるまでに描かれた、ハイデガーの講義の言葉や友人たちとの会話、そしてかつて生き、考えた哲学者たちの言葉が反響している。
たとえば彼女はこのスピーチで、
「アイヒマンは、人間であるということの定義となる特質、すなわち考える能力を放棄し、人間であることを拒否しました」
というのだが、これは作中、ハイデガーの講義で彼女が感銘を受けた「われわれは生きる。なぜなら人間は生きる存在だからだ。われわれは考える。なぜなら人間は考える存在だからだ」という言葉と直結している。
そしてスピーチのしめくくりに、
「思考の風は、知識としてではなく、正邪、美醜を見分ける能力として現れるのです」
というのだけど、「思考の風」はプラトン書くところのソクラテスがどこかでいっていた比喩だったという記憶がある(ちゃんと調べてませんが)し、同じものをハイデガーは「思考の嵐」とどこかで表現していたと記憶している(これも調べてない)。「思考が判断力をもたらす」はカントがどこかで(以下略)、いや、これはなんか違う気がする。・・・・・・すみません。
そして結語。
映画の冒頭近くで、アーレントが英語の言い回しを間違えて、"when the ships are down"といったのを、友人の小説家メアリー・マッカーシーに"Chips, Hannah, chips. Not ships"と訂正される小さなエピソードがあり、それは和やかでユーモラスな場面なのだが、その同じ表現がここで登場したことは特筆すべきだろう。メモするのに必死で字幕を見ていなかった(YouTubeで観ることができたので、無駄な努力だった)が、それとわかるようになっていただろうか。
"I hope that thinking gives people the strength to prevent catastrophes in these rare moments when the chips are down."
「こうした稀にみる危機的状況において、考えるということが、破滅を防ぐ強さを人間に与えてくれるよう望みます」
アーレントはこのことばでスピーチを締めくくったのであり、ハイ、わたくし素直に感動しました。
(もひとつついでにいうと、この言葉には「このときに誰が本当の友人かわかるような切羽詰まった状況」という含みがあり、中盤のロッテの言葉や終幕での夫との会話と呼応している)
スピーチを終えたアーレントに学生たちは拍手で応えるが、辞職を勧告した教授たちは憤然と席を立った。これはもうひとつの「思考不能」だろう。被害者の思考力をも麻痺させ、「抵抗」と「協力」の間の道を探ることをさせなかった、つまり「被害者のモラルをも崩壊させた」ことは絶滅計画の罪であるとアーレントは説明していた。ちゃんと聞けば彼女がアイヒマン擁護などしておらず、ユダヤ人を批判しているわけではないことがわかるはずだ。じっさい学生たちにはそれが確実に伝わった。
アイヒマンの罪が、業務を越えた部分、業務を遂行した結果について思考しなかったこと、自分の領分から一歩たりとも外に出てみようとしなかったことであるなら、相手の主張を虚心に吟味してみようともしないのは、同じ罪に陥っているといえるのではないか。
残念なことだが、知性と心情は別々に働くものだ。
講義を終えたアーレントは、この一件で疎遠になっていた友人ヨナスの姿を認め、「来てくれてたの、知らなかった」とうれしそうに彼に近づく。しかし彼の言葉は彼女を打ちのめす。
「君は傲慢だ。それにユダヤ的なことについては無知だ。だから裁判を哲学論文にしてしまう」「ユダヤ人を見下すドイツ知識人の屁理屈と同じだ。そうやってわれわれをホロコーストの共犯者にしようとしている」
「ハイデガーのお気に入りとはお別れだ」と言い捨てて彼は去る。
「ハイデガーのお気に入り」は最大級の罵倒だろう。アーレントと同じくハイデガーに学んだヨナスは、ナチス党員となった師を許していない。
ヨナスは、自身大学に職をもつ哲学者だ。アーレントの記事が「哲学論文」であるという彼は、つまりその記事が知的に誠実であることもよくわかっている。アーレントと同じく、ユダヤ人であり、考える人であるヨナスは、ユダヤ人としての体験を度外視して考えることができないでいる。アーレントのいう「理解することと許すこととはちがいます。わたしには理解する責任があります。誰であれ、この件について書く者にはその責任があるのです」ということが解らないはずはない彼が。
講義のシーンの前のことにはなるが、旧友ブルーメンフェルトとの別れのシーンも同様だ。
イスラエルで、アーレントと侃々諤々議論を戦わせる最中、はらはらする周囲に気づいたブルーメンフェルトが、いつもこうだから心配ない、議論が終わればまた仲良しになるんだ、といい、アーレントとさも楽しげに笑い合うシーンがあった。議論は議論、後腐れなし、と。しかし記事の公刊後、死の床にあるブルーメンフェルトは見舞いに来たアーレントを拒絶する。
ヨナスもブルーメンフェルトも、「ユダヤ人であるアーレントが、同胞であるユダヤ人を批判した」ことに憤るあまり、アーレントの声に虚心に耳を傾けられないでいる。
夫のハインリッヒ・ブリュッヒャーは、暗い記憶が甦るのではないかと裁判傍聴には反対していたし、脱出せず収容所に残された女たちのことにヨナスが言い及んだとき、アーレントは激しく動揺した。彼女にとってもユダヤ人としての経験が小さなものではないことは確かだろう。
しかし哲学者として思考するときに、彼女はユダヤ人の立場からのみ思考することを避けた。
「わたしは民族を愛したことはないの。友達だけを愛してきた。そういう愛し方しかできない」
「同胞への愛はないのか?」と問われて、そうアーレントはいった。
ブルーメンフェルトもヨナスも、批判者たちも、彼女が「ユダヤ人/被害者」の立場に立っていないという。
もちろんアーレントが立っているのはそこではない。
彼女を非難する者の多くは彼女が「ナチス/加害者」の立場に立っているという。
当然彼女が立っているのはそこでもない。それはどこでもない場所なのだ。
党派性に固着してステレオタイプに陥る思考を退け、共通善を求めて絶え間なく対話すること、それこそが「政治」である(わたしはハンナ・アーレントという人の思想の一部をこう理解しているのだが、どうなんでしょ?)というアーレントが立つのは、どこでもない場所でしかないはずだ。
どこでもない場所に立つことは困難だ。頼りにできるものはない。そこでは人は必然的に孤独になる。しかしそこ以上に思考にふさわしい場所はない。アーレントが彼のもとで学びたいと訪れたときに、ハイデガーがいった言葉「思考とは孤独な作業だ」が思い出される。思考しているとき、人は自分とともにあるだけなのだ。
先のスピーチでアーレントは一貫して「思考することの大切さ」を説いていた。アイヒマンに悪を為させたのが「思考しないこと」であるなら、「思考すること」は悪を抑止する条件となるはずだ。
映画の終わり近くで、アーレントは夫に「悪は深くも根源的でもない。それは極端なだけ。善だけが、深く、根源的なの」という。思考は必然的に深いところへ到達しようとする。だとすれば、表層的でしかない悪は思考の対象にはならない。思考することは必然的に善を目指すことになる。
映画はひとりカウチで煙草をくゆらせ思索する(余談だけど、メアリー・マッカーシーがアーレントのドイツ訛りをまねて"thinking"を"sinking"と発音したのを思い出した)彼女の姿をもって終わる。その姿は、われわれ観る者にも、考え続けることを要求する。
悪を為そうという意思がなくとも、平凡な人間が巨大な悪に加担することは可能だ。それを可能にするのは「自分の行為の意味について、自分の立場を離れて考えようとしないこと」。自分の頭で考えることをやめるとき、人間は人間であることをやめる。だから特定のものに属する場所にでなく、どこでもない場所に身を置き、常に虚心に「これは何か」と問い、考えなくてはならない。自分自身と、また意見を異にする人々と対話しなければならない。人間であり続けるために。
- ハンナ・アーレント [DVD]/ポニーキャニオン
- ¥5,076
- Amazon.co.jp
以下蛇足。ま、個人的な思い入れなんだけど。
雑誌刊行後、手のひらを返したようにアーレントを批判する者たちに、メアリー・マッカーシーが真っ向から立ち向かうところ、これがまあ、さすがは切れ者マッカーシー!とうれしくなってくるほどにカッコよかったわけですが。
手元にあるメアリー・マッカーシーの本(去年の夏、古本まつりの露台で100円で手に入れた、なんてことはいわんでええか)。
エピグラフはイマヌエル・カントの引用。続く献辞は"To Hannah"。彼女とハンナ・アーレントは生涯の友人だった。
そして実は、わたしはこれをローリー・ムーアの本と間違えて買ったのであった(いわんでええちゅうねん)。
- Birds Of America/Mariner Books
- ¥1,161
- Amazon.co.jp
- Birds of America/Faber & Faber
- ¥1,614
- Amazon.co.jp










