お早うございます。
チェンとドン・キホーテさんに行ってきました。
閉店間際のタイミングで新鮮な卵と牛乳が買えました。これはラッキーでした。
チェンの食べたい調理パンも買えました。
フルーツ缶詰めも買えました。
塩辛も買えました。
シチューも買えました。
トイレットペーパーも買えました。
あと飲み物関係です。
ケーキ・バイキングは終わってました。
ローソンさんでデミ・ハンバーグとサバの味噌煮も買えました。
チェンが洗濯材を買ってくれと言うので買ってきました。
今、チェンとテレビを見ています。
アシッドマンさんね。
なんか私の同級生のバンドが彼ら自身よりアシッドマンさんを下に見てましたけど。
私は音楽のことはよく解りませんが、アシッドマンさんのサウンドのほうが同級生のバンドの音より自分の体に自然に入ってきますけどね。それは言い方を変えればアシッドマンさんは自分たちのサウンドと誠実に向き合い続けているということではないでしょうか。同級生のバンドのサウンドは中身を感じないです。私なんかのアートの世界でも中身のない作品は1発で見抜かれます。同級生のバンドはアートもやってたんですけど、1番、顕著に私には解りました。中身がないんです。菊地くんもね。菊地くんたちは腰かけでアートをやっている、という言い方をしていましたが、魂を込めて作り続けている人は冗談でも腰かけでやっているなんて言い方は絶対にしません。
私の周囲で『田島と競い合って技術を凌いで』という人は居なくなりました。あぁ、これは独りで踏ん張っていく作家人生で行くんだろうな、とは思っています。作品が完成したらプレゼンテーションの場で技術や感性を競う形になると思っています。現在もそれが続いています。
アシッドマンさんのボーカルのかたは真一無二の宇宙観を熱く語ってますが、私はシンプルなものも複雑なものも好きです。私は宇宙という世界観は人それぞれの精神の中に宿すものだと思っています。真一無二ということであれば命こそまさにその象徴かと私は思います。そういった意味では師範もGunさんたちもすごく濃い人たちですね。
あぁ、テレビが終わりました。
チェンは私の言葉に共感しています。アシッドマンさんのボーカルのかたの語る宇宙観はちょっとマニアの語る言葉に聞こえるな、と言ってます。要するにメディアを意識して言葉を選んで発し過ぎていると言ってます。
対話というものにおいて人間性というのは浮き彫りになるもので。
今、私が菊地くんや大川たちと話したらどういう展開になるんだろうか?、とは思います。
菊地くんは私のことを友達だと思ったことは1度もないという切り捨て方をされてたみたいですが、私はそうは受け取っていません。菊地くんは私の同級生に変わりはないですし、自分の歴史を形取る上で大切な存在だと今でも思っています。師範代やGunさんやTaiさんやKataさんや子供たちといると、そのあたりがなんとなくおおらかで居られるような気がします。
私は技術を競うという場が好きです。これはもう性分ですね。私は現在、50歳のオジさんですが20代や30代の作家さんとプレゼンテーションの場で技術を競うことを活動の1部にもしているつもりです。モチベーションという言い方が正しいんでしょうか。その辺はYUCOさんとはちょっと違っている感じがします。
あと、今回、実家の介護に行って自分の中で変わった意識があります。作品に囲まれることの幸せ、仕事ができるありがたみ、このあたりが変わりましたね。今、自分は1つもトチれないという現実ではあるのですが、そもそも、プロならトチらない進行の仕方を実行して当然です。
ところで皆さんは仕事のスウィッチってどこですか?。大概がなにかに集中したり、環境を移して得たりだと思います。私の仕事のスウィッチは食と睡眠です。料理を作ることでスウィッチが入り、眠って自然蘇生回復することでスウィッチが入ってます。
元来、なにかに挑戦せずして得るものは無し。高めずして昇ること無し。師範の言葉です。最近は師範と通じたなにもかもが愛おしく感じます。
また格段に成長した姿を『線画展』でお見せできることと思います。
『訓辞』:
KEN、卒業おめでとう。
これから大きな志をもち、大きなフィールドを目指すかもしれないね。
迷ったときは家族や友達のことを考えてほしい。
悩めるときは自分自身と向き合ってほしい。
勇気と優しさを大切にみがき続けてほしい。
少年よ、未来に向かって走り出せ。
希望に向かって走り出せ。
できないことは、きっとない。
最高に輝いて、最高の笑顔でいてくれ。
オレたち、家族はどんなときもキミを見守っている。
KEN。お兄さん、今回、すごいことに挑戦してるんだ。いろいろと体調のこともあるんだけど、頑張ってるよ。
田島 浩司