長崎生まれ、すぐ沖縄に
私は長崎県生まれ。0~3歳までを沖縄県で過ごした。
生まれた0歳の記憶はないのですが、長崎の稲佐山に祖父母がいたこともあり、
幼少期は祖父母の家に頻繁に遊びに行きました。
祖父と蝉獲りをしてましたね。
長崎の稲佐山は、福山雅治コンサートとしても有名。
幼い頃は、祖父母の家や街に出るときは、山の階段の登り降りが大変でした。
しかし、海に浮かぶタンカー船を眺めたり、「100万ドルの夜景」と言われる夜景は、
子供ながらに覚えています。
沖縄の記憶はない
0~3歳は沖縄で過ごすも、私は写真や8ミリビデオで見る程度。
当時の記憶は、ありません。
当時、太っていた私は、沖縄で100日咳にかかり激痩。
そんな病も、全く覚えてませんね(苦笑)
簡単に家族構成
父親は某保険企業のサラリーマン。
母親は父親と職場恋愛で結婚。その後、専業主婦へ。
両親共に九州出身で、妹が1人います。
両親や妹の優秀なDNAを見ると、私は全く別の人格と記憶力の悪さ。
同じ血があるとは思えません。
私は人の話が全く聞けない、ボ~っとした妄想好きの子供だったのです。
1人遊びが好きで、砂場遊び、ブロック遊び、電車のプラレール、工作&プラモデルなど、
クリエイティブに没頭する傾向が強かった。
クリエイティブ職への“種植え”
さて沖縄から大阪阿倍野区に引越し、幼稚園と小学校2年まで過ごします。
クリエイティブの感性は、母親が私の才能を伸ばしてくれたように思います。
牛乳箱や空き缶、プリンの容器などを捨てずに貯めておき、
工作の材料を保管してくれてました。
小学校1年のときに、その空き箱で工作して、巨大ガンダムを作り学校に運ぶと、
クラスメイトが「うわ~すげ~!」と集まってきて、生まれて初の快感を覚える。
それ以降、先生にも工作展などを薦められたようですが、人の話を聞かない性格は健在。
母親から後に聞くと、私の工作や砂場での集中力は凄く、ずっと1人の世界に没頭していたそうで。
大人になってのクリエイティブに影響しているのは確かです。
また後の職業編で語ります。
大人の説明には耳をかさない子供
1人遊びが好きで、大人の説明には耳をかさない子供。
スイミングスクールに行っては、隣の子供に話しかけて先生の話は聞かない。
視力検査では、Cの空いてる箇所を指さす意味がわからず…。
適当に指さしていたら…。
「視力が悪くて失明する」と母親が騒ぎ出して、眼鏡をかけることに(苦笑)。
小学校2年の頃から、他の子供と野球をしたり、銀玉鉄砲で戦争ごっこ。
鬼ごっこなど、年上の兄さんや同級生と遊び始めたのは、小学2年の頃からでしょう。
運動神経が悪く足も遅い。野球のバットでボールに当らない。
野球でチーム分けする際、「俺○○欲しい~なんて、リーダーが取り合いしていくとき、
必ず最後まで残ってましたね。お荷物的な扱いでしたが(苦笑)
小学校2年生で、父親に、6段変速切替え付きの自転車を買ってもらい。
補助輪を外して乗り出すなど、運動意識が目覚めだします。
当時の子供の流行は?
ガンプラやジオラマをたくさん作りましたね。
もちろん西部警察の車や、バイク模型など。
現代のように既製では色は塗っていないため。
自分でプラスチックに塗装もして、ヤスリで丁寧に処理して作成。
ウルトラマンや仮面ライダーには夢中だったようですが、
周囲の同級生より、私は、アニメを見ていなかったようです。
エレクトーン、水泳、英会話など母親は薦めてましたが、
全く興味を示さず、長続きしませんでした。
今考えると、エレクーンを続けていれば、大学でのバンドで小室ファミリーを目指していたはず。
とても惜しいことしました(苦笑)。
