LSゼロ戦21型再生と赤城戦闘機隊

LS 1/72(1/75) 零戦21型 1964~1990年代

初版のみ主脚収納可能。

キャノピー・エルロン・フラップ・方向舵・翼端折り畳みなど可動ギミック満載。

開閉自在キャノピーは段差が目立つし、窓枠が太いのが難点ですが、

1964年当時としては先進的凹モールドで、機体のアウトラインは崩れておらず、

60年代名作ゼロ戦21型キット。

 

 

今、作ってみても1964年のプラモとは思えない精密さを感じます。

発売から約30年間くらいも販売され、その間に箱が何度も新しくなり、デカールも

最後はかなり正確になりました。

しかしキットはベビーモーター用パーツがランナーに追加されたくらいで、2版以降

ほとんど金型は変わりませんでした。

30年もあったんだから、機首機銃間の凹凸くらい再現してくれてもよかったんじゃないかと・・・

でも今でも気軽に組んで楽しめる21型です。

 

LS1/75零戦21型初版再生

 

1964年の初版発売から60年、今でも結構通用するプラモです。

表面のスジボリは繊細な凹モールドで1964年とは思えないレベルです。

初版の脚の収納は、当時ぶらぶらで不安定と評されましたが、主脚柱の頭にちょっと気を使って組み立てると案外かちっと立ちます。

機首機銃間が平板になっているのはいただけないですが、なんとかそれらしく曲面をつければ、まあゼロ戦になるかな・・

 

 

機首~キャノピー前部あたりは1/72以上の太さでカウリングがちょっと小さい?

内部にも手を入れて、作りこんだ21型にしたくなる衝動にかられましたが、こだわりすぎて完成しなくなっても困ります。

より正確なゼロ戦はファインモールドやタミヤを作ることにして、内装は写さなければよし、と外観だけを少し修正。

 

機体はモールド色を生かして数か所タッチアップ。カウリング・ペラ以外無塗装。

モールド色のグレーは、いわゆる「現用飴色(灰緑色)」そのものみたいな良い色合いです。

 

機首の7,7mm機銃はABERの金属機銃を使おうかと思いましたが、

ちょっと勿体なかったので0.5mmのしんちゅうパイプでごまかしました。

 

 

赤城戦闘機隊「A1-101」のナゾ

 

1970年代はじめ、日の丸プラモは60年代から飛躍的にレベルUPしました。

特にゼロ戦は60年代の日の丸だけのプラモから豊富なデカールがついた現代的な

キットに進化しはじめました。

当時ぷらもったも1972年のフジミ・ハセガワや1973年のタミヤのゼロ戦を作るのに熱中したものです。

それらのキットには黄色線2本のA1-101のデカールは定番でした。

 

 

 木村一飛曹 真珠湾AⅠ‐101 ミッドウェーAⅠ‐108?

真珠湾攻撃の赤城戦闘機隊 木村惟夫(惟雄ノブオ)一飛曹

一飛曹は下士官。将校(士官=少尉以上)ではないので分隊長(中隊長・黄色線2本)はあり得ません。

したがって真珠湾の時はA1-101には黄色線なしのはず。

残っている写真でもA1-101に横線はありません。

木村氏はその後のラバウル攻略・ポートダーウィン爆撃・インド洋作戦・ミッドウェー海戦にも参加し、赤城が沈没するまで赤城戦闘機隊員でした。

 

当時は何の知識もありませんでしたから、何の疑念も抱きませんでした。

しかし、今あらためて眺めると・・一飛曹(下士官)が2本線の中隊長?

日本海軍ではウデが物を言う戦闘機隊であっても、兵学校出の大尉中尉(士官=将校)とかじゃないと隊長になれません。

真珠湾ではあり得なかったとして、赤城が沈んだ

ミッドウェーではあり得なかったのか?

そう思って調べ始めたのですが・・これが難問でした。

 

★ハワイの時の赤城戦闘機隊18機のうち、

飛行隊長(2個中隊18機)     板谷少佐(海兵57期)A1-155(第1波)

中隊長(分隊長・3個小隊9機)進藤大尉(海兵60期)A1-102(第2波)

               指宿大尉(海兵65期)A1-103(第1波)

木村一飛曹 第2波進藤分隊長の2番機 A1-101横線なし

       ★機番号はModelArt No573 真珠湾攻撃隊 によった。

したがって、真珠湾の時の尾翼標識・機番は

(下士官であっても3機の小隊長はありました。小隊長は機番号の上に黄線1本)

 

というわけで、これら70年代初めのゼロ戦キットの

分隊長標識A1-101は真珠湾攻撃時点では間違い

ということになりますが・・・

 

ミッドウェー海戦 1942.6.5 現地6月4日

太平洋戦争の大きな転換点になった海戦ですが、意外とわからないことばかりです。

そもそもミッドウェー時の赤城戦闘機隊18機のメンバー・友永ミッドウェー攻撃隊のメンバーがよくわかりません。

あまりに大きな敗北だったからか、意図的な記録改ざんがあり。「運命の5分間」という虚構がつくられたり、はっきりしない部分が沢山あります。

「第1航空艦隊戦闘詳報(1942.6.15)」にも意図的な作り変えがあるようです。

 

 

ミッドウェーでの標識・機番号は?

1970年代初期のフジミ・タミヤに使われたA1-101

 

真珠湾~インド洋作戦までは勝ち戦の余裕からか、写真・フィルムが残っています。

そこから標識・機番・搭乗員名はおおよそ判明しています。

特に真珠湾作戦の時の資料は沢山あり、私のようなただのプラモオタクでもおおよそは調べられます。

 ModelArt「真珠湾攻撃隊」2000、Sweet1/144デカールNo7赤城戦闘機隊など

 

ミッドウェー時はどうなっていた??

これがさっぱりわかりません。

4空母とも沈み、搭載機は13試艦爆改装偵察機(彗星試作3・4号機)・ミッドウェー占領後の守備隊になるはずだった6空のゼロ戦ふくめ、270機以上すべてを喪失。

沢山撮影されていただろう写真も動画もすべて失われて、全然残っていません。

ですから現在の資料のミッドウェーでの機番号・標識などは

すべて推測です。

  ミッドウェーの日本海軍機 Model Art707 2006

 

アメリカ側の記録から標識・機番号は分からないか?

アメリカ海兵隊VFM221 W.ハンバート大尉

6月4日友永ミッドウェー攻撃隊を迎撃。

 

スコードロンのバッファローの表紙に赤城分隊長標識「A1-109」を撃墜するW.ハンバート大尉の乗機が描かれてます。

彼は99艦爆1機と零戦1機を撃墜したとされます(海軍十字章受章)。

このミッドウェー攻撃隊に参加した赤城9機は分隊長白根大尉ふくめて全機帰還した

ようで、99艦爆損失1機は日本側では対空砲火で撃墜されたとなっているようです。零戦は出撃36機(4空母x9機)のうち、2機損失ですから、1機は彼が撃墜したのは事実かもしれませんが、この時の赤城分隊長白根大尉は生還してます。

バッファロー隊はこの最初の空中戦で事実上全滅しました。ゼロ戦には太刀打ちできないと判定され、以後練習飛行隊に回されます。一方、ミッドウェーでゼロ戦となんとか戦えたグラマンF4Fは、終戦まで日本近海で護衛空母などに載ってます。

 

 

日本海軍はミッドウェーで飛行機はすべて喪失しましたが、搭乗員は結構助かってます。しかしミッドウェーの戦いの写真は本当にないですね。戦後80年以上になるのに、その間に新たに見つかった写真とか全然ないのには違和感覚えます。

戦闘詳報を書いた南雲機動部隊航空乙参謀 吉岡忠一少佐自身が、詳報に手を

加えていることを認めています。

(昭和51年3月森史郎氏によるインタビュー「ミッドウェー海戦」新潮選書あとがき)

 

海戦後の天皇陛下への報告でも赤城を喪失したことをはじめ、甚大な被害と完全な敗北は隠されてます。国民にも天皇にも真実は隠され、戦後「運命の5分間(6分間)」が捏造されて、いかにも日本が「ついてなかった」、指導部には責任はなかった。

とされてしまってます。

かなり消された写真とか証言があるような・・

 

 

海軍は一作戦が終了するとかなり転勤者がでるのが通例でした。赤城戦闘機隊も

メンバーが少し変わっていたようです。

例えば真珠湾の時の赤城分隊長進藤三郎大尉は真珠湾後、病気療養のため赤城を退艦してます。

後任は白根斐夫大尉(海兵64期)みたいですが、中隊長標識A1-102は彼に受け継がれたのでしょうか?

もう一人の分隊長指宿正信大尉(真珠湾第1波A1-103)はミッドウェーにも参加し、上空直衛で飛んでます。

 

進藤三郎「真珠湾AⅠ‐102」・・真珠湾後赤城退艦、大分空・582空飛行隊長・204空飛行隊長・空母龍鳳飛行長・653空飛行長(マリアナ沖、比島沖海戦参加)・203空飛行長・筑波空飛行長、終戦時戦闘402(紫電改)。海軍少佐。2002年死去

 

指宿正信「真珠湾AⅠ‐103」 

・・戦後は航空自衛隊で日本初のジェット戦闘機教官

 

 

白根斐夫大尉 「ミッドウェーAⅠ‐101」?

 

真珠湾攻撃では分隊長(中隊長)標識のA1-101は存在しないですが、ミッドウェー

海戦ではあり得るようです。

白根大尉は、1941年9月のゼロ戦の初空戦に進藤三郎大尉のもとで参加(中尉)。

エースパイロットの1人(公認9機)名戦闘機指揮官として有名。

ミッドウェー・南太平洋海戦等に参加。

紫電隊隊長(戦闘701)としてフィリピンで戦死。

 

 

Wikipe.も混乱 

板谷茂少佐「真珠湾AⅠ‐155」

「ミッドウェーAⅠ‐101」?

 

真珠湾時の赤城戦闘機隊長 板谷茂少佐についてWikipe.には

「6月5日(日本時間)のミッドウェー島攻撃隊に赤城からは板谷指揮

零戦9機」と書いてあります。

板谷茂少佐はミッドウェーでも赤城飛行隊長で乗っており、赤城で艦上指揮をしていたようです。

(森史郎「ミッドウェー海戦」新潮選書2012)

6月5日(現地4日)のミッドウェー攻撃隊総指揮官は

飛龍の友永丈市大尉です。

板谷少佐が参加していたのなら階級から板谷少佐が総指揮官のはず。

ミッドウェーでは1度も飛んでないようですが、

上空直衛に少佐が出ることもあったのでしょうか?

また板谷少佐は第2次攻撃隊の赤城戦闘機隊指揮官の予定だったのでしょうか。

 

Wikipe.ではA1-156を板谷少佐の搭乗機であると解説。

 

 

1942年6月4日(現地時間)友永ミッドウェー島攻撃隊

図は先頭の友永艦攻隊がバッファロー・F4Fの奇襲を受けた時の隊形で、もともとは艦攻隊上空にも援護ゼロ戦は飛んでました。直前に零戦隊が錯誤で援護隊形を乱した結果、友永艦攻隊の上空が開いてしまい、米戦闘機の奇襲を受けてしまいます。

 

そもそもゼロ戦の機数が少なすぎです。真珠湾の時から艦攻艦爆より少ないため、いつも貴重な爆撃雷撃の特殊技能者を失ってます。1空母にゼロ戦はほぼ2個分隊18機。各艦第1次攻撃に半分の9機、上空直衛に3~4機。しかも真珠湾以来、日本海軍は「集中運用」、直衛機は4空母合わせても1ダースほど。米軍も攻撃隊は100機ほどで来ますから、これでは防衛機が不足です。真珠湾では空母6隻でしたが、ミッドウェーは4隻。大和以下主隊防衛に軽空母1隻をつける意味なんてないし、アリューシャン攻撃に行かせた隼鷹・龍驤、珊瑚海海戦で搭載機を多数失ったけど艦は無事だった瑞鶴、それらもまとめてミッドウェーに参加させていれば、負けるはずのない戦いでした。1艦でも機動部隊防御のために戦闘機だけ搭載する考えはなかったのでしょうか。

 

この友永ミッドウェー攻撃隊に木村惟夫一飛曹も参加

 

 

「私は白根大尉の指揮のもと、赤城制空隊第3小隊1番機

(小隊長)で出撃した」

「丸」昭和62(1987)年2月号~「証言ミッドウェー海戦」光人社NF文庫2022

「丸エキストラ版」1975年8月号~「零戦の攻防」秋本実 光人社2010

 

 

ミッドウェー島第1次攻撃隊に赤城戦闘機隊は9機発進し、中隊長は白根大尉

当時板谷飛行隊長は艦上指揮で第1次には参加してない。

 

 

木村氏のこの証言には、続いて「私の愛機A1-108」と書いてあります。

ミッドウェーの時はA1-101ではなく、A1-108?

しかも「左右には列機~小隊長」です。

 

 

そうすると黄色線1本のA1-108?

ただし、この手記には真珠湾の時も「愛機A1-108」

と書いてあります。

(「丸」1974年2月号の手記では真珠湾第2波「愛機A1-109」と書いてある。

「零戦の栄光」秋本実 光人社2010)

真珠湾攻撃の時から木村氏の愛機はAⅠ‐108?

これが最も頭を悩ませる証言です。現在までの大抵の真珠湾作戦の資料には木村氏の愛機はAⅠ‐101と書いてあります。しかし木村氏の戦後の手記は「真珠湾以来愛機AⅠ‐108」赤城被爆直前に飛び乗った甲板先頭のゼロ戦は「長機AⅠ‐101」

「先頭の機には板谷隊長はまだ乗っていない」と・・・。

4月にインド洋作戦から日本に機動部隊が帰還して整備した際に、機番号を整理して、101を飛行隊長板谷少佐、木村氏が108になった?と考えれば板谷少佐は3本線の101もあり得ます。

第2次ミッドウェー(又はアメリカ機動部隊)攻撃隊が甲板上に並べられていたなら先頭は板谷少佐です、しかし実際は赤城の甲板には上空直衛機が3~4機並んでいたようです。だとすれば「長機AⅠ‐101」は分隊長の白根大尉ではないかと。

そう考えれば分隊長標識AⅠ‐101は実在し、木村氏が赤城被爆直前に緊急発艦したAⅠ‐101は2本線の分隊長機ということになります。

 

木村氏の手記が真実とした場合の板谷隊長機

「3本線のAⅠ‐101」

木村氏はミッドウェーで3機以上撃墜し、終戦まで飛び続けたベテラン零戦パイロット。おそらく5機以上撃墜のエース。

その彼が自分の手記に愛機番号を間違えて書くでしょうか。出版社側のミス?

真珠湾のA1-108は森栄一飛兵(真珠湾第2波)では?

現在の模型資料でも木村一飛曹はA1-101でA1-108なんて見たことありません。

しかし現在でも販売されている手記はA1-108(A1-109)のままで訂正されてません。

 

木村氏は真珠湾第2波で指揮官進藤大尉の2番機、1942年2月のポートダーウィン空襲で赤城飛行隊長板谷少佐の2番機、4月の英空母ハーミス攻撃では赤城戦闘機隊1番機(指揮官)を務めており、実力のあるパイロットです。

後世の研究者ではなく、御本人が「A1-108(A1-109)」と書いているのですから間違いないとも思えますが、記憶違いもあるのでしょうか?

ミッドウェーの時の赤城戦闘機隊の機番については、この木村氏の証言しか見当たらないようなのですが、肝心の証言が一定しないのがなんとも釈然としません。

101・108・109 どれが真実なのでしょう?

 

 

ミッドウェー海戦時の赤城戦闘機隊の機番号や標識については、木村氏の手記以外はないようで、まったくわかりません。

 

ミッドウエーでの主力空母4隻喪失で、結局は日本機動部隊の空母搭載機278機(ゼロ戦103機)をすべて失ってしまいました。(他にミッドウエー占領後に守備隊となる

6空ゼロ戦や予備機も)それらを写していた報道班員のフィルムなども海没で、機体標識がわかる写真が残っていません。

 

真珠湾~インド洋作戦での赤城戦闘機隊の写真は若干残っています。

赤城戦闘機隊の動画 日本ニュース第99号 1942年4月

赤城を発艦するA1-108 ,A1-158  YouTube

 

 

 

 

1942年6月4日(日本時間では5日)

ミッドウエー海戦

4日5時35分(現地時間)、先に日本機動部隊を発見したのはアメリカ側日本空母をPBYが発見。

(米側はミッドウェー基地にPBY22機、B-17を19機配備。すでに前日3日に日本の上陸船団をミッドウェー島のB-17・PBYが発見しており攻撃している。)

4時15分 前日に発見した日本船団を攻撃するため、B-17x15機が発進。途中から日本空母攻撃に変針。

日本側索敵機7機に対し、米側はPBY22機投入。

7時 日本側はアメリカ空母は出てこないと考えてミッドウェー島攻撃友永隊108機が発進。

 

A1-108だった場合の木村氏の機体

 

ほぼ同時刻、米空母からSBDドントレスやTBDデバステーター、F4Fなどが発進。

ミッドウェーからは新鋭TBFアベンジャーやB-26など、とにかく発進できる飛行隊から護衛なしでも日本空母めざして順次発進。

日本側はミッドウェー第2次攻撃隊を用意始めていたが、米側に遅れること約2時間半後に米機動部隊発見。

発見第1報7時28分(有名な利根4号機)、旗艦赤城が発見電を受信したのは8時。

陸用爆弾を魚雷に兵装転換でもたつく。

9時すぎ、ミッドウェー攻撃隊帰還収容完了。

 

8時前後から10時すぎまで日本機動部隊はミッドウェー島とアメリカ3空母からの波状攻撃にさらされる。

巧みな操艦と上空直衛のゼロ戦により、すべて撃退。被弾ゼロ。

 

 

8時過ぎのB-17x15機の爆撃は4空母とも全弾回避。

 

 

ミッドウェー島攻撃隊に参加した赤城戦闘機隊白根大尉・木村一飛曹らが南雲艦隊

上空に戻ってきた時、ちょうどB-17が爆撃した瞬間でした。

B-17には上空直衛機が数機向かっていきます。木村氏たちは母艦を攻撃する雷撃機(TBDデバステーター)を発見、数機の雷撃機を撃墜し、これを撃退したのち赤城に着艦。

 

 

4空母は格納庫で800㎏の91式魚雷を800kg爆弾にかえたり、また戻したりと大混乱。

その間、各艦からは上空直衛のゼロ戦が発艦。上空にゼロ戦は常時20~30機。

赤城からも指宿大尉や6空(ミッドウェー守備隊予定)隊長の兼子大尉らが発艦。

木村一飛曹も白根大尉と共に上空直衛で再度発艦しています。

 

 

各艦には堂々とでっかい日の丸。

米軍パイロットには良いマトになったそうです。

 

 

8時過ぎのB-17の爆撃時点で南雲機動部隊はアメリカに位置を完全に把握されてましたが、日本側はまだアメリカ空母を見つけてません。

 

7時30分ようやくアメリカ空母を偵察機が発見。

旗艦赤城が発見電を受信したのは8時。そのため

これらの写真の時の各空母格納庫では陸用爆弾を魚雷に再転換するなど大混乱中

 

 

各空母の甲板のゼロ戦数機は上空直衛機。

まだ第2次ミッドウェー島(第1次米空母)攻撃隊は並べられてない。

 

運命の5分間 1942年6月5日午前7時半頃

(現地時間4日午前10時半頃)

第2次ミッドウェー(第1次米空母)攻撃隊が甲板に並べられ、発進はじめの号令と共に、旗艦赤城から制空隊1番機が発艦した瞬間、ついにドントレスの急降下爆撃で飛龍以外3空母が被弾。攻撃隊もろとも3空母は大炎上。

 

ミッドウェーの悲劇・・運命の5分間

空母赤城1942年6月5日午前7時半頃(現地4日午前10時半頃)

 

戦後~2010年くらいまでは、米空母攻撃のために兵装転換を終えた攻撃隊が、空母甲板に整列し今まさに発艦しようとしていた時に急降下で攻撃され、あっという間に3空母が全滅したと一般には信じられてきました。

あと5分(6分という説も)あれば、全攻撃隊が発艦できた。

日本艦隊にはレーダーもなく、日本側の指揮にはなんら問題なし、運がなかった。

いわゆる「運命の5分間」説です。

 

そもそも日本艦隊にはまだレーダーが未装備で、見張りに頼っていました。直前の米雷撃隊をことごとく上空直衛のゼロ戦がかたっぱしから鮮やかに撃墜していたのを、艦側も拍手で見とれてたそうで、上空のSBDドートレスに気づくのがおくれてしまいます。

 

 

日本側には上空直衛機を艦上から集約的にコントロールするシステムがなく、各空母から自艦の戦闘機隊に指示しており、無線も低性能の上、ゼロ戦全機には装備されてなかったらしく、上空への効果的誘導ができてません。

アメリカ側はミッドウェー島のレーダーが友永隊を発見、在島の全航空機を

事前に空中退避・迎撃態勢をとっており、日本側が期待していた奇襲にはなりませんでした。

米軍は無線の充実・レーダー装備の上、暗号まで解読、日本の索敵機はたった7機に対し、米側PBY22機。B-17もあるし、各空母のSBDは半数が威力偵察隊で偵察能力段違い。おまけに新鋭の彗星偵察機は8時30分にせっかく米空母3隻を発見しながらも、通

信機故障で帰還するまで米空母存在の確証を得られないという情けなさ。

 

そもそも主力4空母を「集中運用」していたのが失敗。大和を含む巨大な「輪形陣」にしておけば、米軍の攻撃隊はやすやすと空母に近づけなかったはず。さらに大和以下の主力艦隊がなぜに500㎞も後方にいたのか・・。アメリカ人が見たことない巨大戦艦の威力を見せつける絶好の機会。140隻以上の史上最大の無敵艦隊を出陣させながら、戦ったのは4空母の機動部隊だけという妙な作戦。

 

現在この「運命の5分間」は意図的虚構と考えられてます。SBD降爆時、各空母の甲板には上空直衛機などが上げられており、第2次ミッドウェー(第1次米空母)攻撃隊は並んでなかった、が真相のようです。

 

赤城がエンタープライズのドントレスの1000ポンド爆弾をくらったのは10時半。

「運命の5分間」説では日本の攻撃隊(第2次ミッドウェー攻撃隊➱米空母攻撃隊)が発進し始めた時。

 

第2次攻撃隊総指揮官は赤城雷撃隊村田重治少佐。

先頭にならぶ赤城制空隊1番機は板谷少佐機が予定されていたのでしょうか?

この第2次攻撃隊の赤城戦闘機隊隊長(予定)は板谷少佐?

 

 

木村氏の手記「先頭のA1-101には隊長の板谷少佐はまだ乗っていない」

これは第2次攻撃隊隊、赤城戦闘機隊の長が板谷少佐と予定されていたことを示す?

 

板谷少佐機が真珠湾以来のA1-155ではなく、木村氏の言うA1-101なら、機番号上下の黄色線は3本のA1-101

になります。

 

しかし、近年の研究では被爆の瞬間、甲板上でエンジンを

かけていたゼロ戦は上空直衛機のようです。

上空直衛には艦上指揮をしている飛行隊長板谷少佐は上がらないと思うので、先頭の長機は白根大尉機のこと?

それなら、黄色線2本のA1-101です。

 

攻撃隊はほぼ兵装転換を終えていたが、まだ格納庫内にあったらしいです。

 

 

このハセガワの赤城の箱絵がその被爆直前の飛行甲板の状況に近いようです。

この瞬間、赤城から唯一発艦できたゼロ戦は。真珠湾のA1-101パイロット木村惟夫一飛曹でした。

彼は戦争を生き抜いて戦後この瞬間のことを書いています。

 

 

甲板上の隊長機はA1-101

「赤城上空では三列目の敵機が急降下に入る直前だ。艦が風にたちはじめた。先頭の隊長機「A1-101」に整備員が乗ってエンジンを回している。・・中略・・私は隊長機に飛び乗って、エンジンを全開にして発艦した。」

 丸エキストラ版1975年8月号~零戦の攻防 秋本実 光人社2010

 丸1987年2月号 証言ミッドウェー海戦 光人社

長機に板谷隊長はまだ乗っていない。

「反射的に空を見上げた。なんと敵艦爆隊が3列見える。・・早く飛び立たたなければならない。発動機が回っている。1番機の長機には板谷茂隊長はまだ乗っていない。・・私は飛び乗ってただちにエンジン全開、発進した。

零戦搭乗員会会報「零戦」26号 1991年5月1日「零戦かく戦えり」文春文庫2016

 

 

隊長機A1-101? 

この日、ミッドウェー友永攻撃隊に参加した木村氏は

「中隊長は白根大尉」と手記に書いています。

でも白根大尉機の機番号は書いてません。もし赤城被爆直前に飛び乗ったのがA1-101なら、白根機の機番号は知ってるはずなので、白根大尉のA1-101と書くはず。やはり白根大尉の機番号は101ではないのでしょうか?それとも甲板に飛び出したとき、第2次攻撃隊が並んでいたと勘違いして、先頭のゼロ戦は板谷機と思い込んでいた?

板谷少佐の乗機はミッドウェーではA1-101になっていたのでしょうか?

わけがわからなくなりました。

木村氏は1992年に他界されましたが、ご存命中に誰も質問しなかったのかな。白根大尉も板谷少佐も戦死され、指宿氏も戦後早い時期に空自で殉職・・。今となってはもうわかりませんね。

 

木村氏が赤城被弾直前に飛び乗ったのは白根大尉の乗機?

板谷隊長の乗機?

 

この日ミッドウェー攻撃隊赤城戦闘機隊の隊長は白根斐夫(あやお 海兵64期)大尉で、ミッドウェーから帰還後はちょうどアメリカ雷撃機が日本空母に襲い掛かっている時でした。そのまま雷撃機を木村一飛曹らと共に撃退して着艦。

格納庫ではアメリカ機動部隊攻撃のための兵装転換をしていた10時ごろ、第2次攻撃隊ではなく、甲板上には上空直衛機が並べられていたとするなら、先頭の隊長機は白根大尉のA1-101だった可能性があります。

「先頭の隊長機A1-101」は白根大尉?

もしかすると、フジミ48初版やタミヤ48初版カラーイラスト・ハセガワ72の2版の箱絵は木村氏の証言に従って、赤城被爆直前に「隊長機A1-101」で発艦した光景を描いたのかも・・・。また、タミヤがカラーイラストのA1-101を板谷少佐機としたのも、木村氏の証言「先頭の隊長機に板谷隊長はまだ乗っていない。」

「私は先頭の長機A1-101に飛び乗って発艦した」に従ったのかも。

 

白根少佐は1944年フィリピンで紫電でP38と交戦して戦死。

板谷少佐は1944年千島で戦死。(隼が便乗していた96陸攻を誤って撃墜・・・)

木村氏は平成4年に亡くなられており、今となっては本当の

機番号はナゾです。

★そもそも板谷少佐の真珠湾のA1-155も根拠はなんなのでしょうか?

 

海軍の搭乗機は緊急時以外はパイロットが固定されてました。真珠湾~ミッドウェーまでも機体機番号は固定だったのでしょうか?

ミッドウェー前の4月に南雲艦隊は日本に帰港して整備してます。艦上機は潮風の影響もあって何か月も使えません。ミッドウェー前に新しい機体と取り換えられたはず。またその際に転出・転入で割り当て機番号が変わった可能性もあるのでは?

 

板谷少佐または白根大尉がA1-101、木村一飛曹がA1-108も証言が残っている以上、充分あり得ます。

 

ただ気になるのは、木村氏が手記に「真珠湾以来の愛機A1-108(A1-109)」と書き残していることです。

それが真実なら「日本ニュース99号」のA1-108は真珠湾攻撃後~ミッドウェー前ですから木村機ということになります。

戦闘詳報とかには搭乗機番号までは載ってないそうで・・参加した方々も鬼籍に入られており、もう永久に謎です。

 

 

A1-108は4月の日本ニュース映像にもでてきました。

 

Wikipe.の解説には「真珠湾ハワイ第2波制空隊 森 栄 一飛兵搭乗機」となってます。確かに森一飛兵は第2波赤城2小隊3番機で発進していますが、どう見ても日本ニュース99号、4月のインド洋作戦時の画像じゃないかと・・

 

木村氏の手記の真珠湾の時から愛機は「A1-108」だったとすると、この1942年4月のインド洋作戦の時点で写真のA1-108は木村氏がパイロットだったことになります。また4月9日の英空母ハーミス攻撃では赤城戦闘機隊の指揮官と書かれてますから、機番号の上に黄色線が1本はいるはずですが、写真のA1-108には横線はありません。

木村氏は真珠湾の時は「愛機A1-109」という手記もありますから、今一信頼できないような気もしますが、そこは実際に飛んでいたベテラン(多分5機以上撃墜のエース)パイロットの証言。やはり無視はできないかと思います。

 

 

結局、ミッドウェーの時の機番号・標識については確証は得られませんでした。

仕方ないので木村氏を小隊長A1-108,白根大尉を分隊長A1-101としてLS21型を再生しました。

  LSゼロ戦21型初版再生終了 2024,1,21

 

 

 

 

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