”べき” ”ねば” よ、さようなら
親としてする "べき" こととは?
親として、こうあら "ねば" ならない
わたしはこういう考え方が苦手です。
"べき" "ねば" という言葉がつくと、
四方から追い立てられているような
イメージがあります
元々、私自身はそういうふうに考える
タイプではないのですが、例えば周囲の声、
親なんだから、もっとこうすれば?
とか
親なのに、そんなことでどうする
みたいな意見は、
直接ではないけれど、よく耳にしてました。
言い方は違うけど、
”ねば・べき”と意味は同じなんですよね。
どちらにも、せま~い枠に押し込める感じ、
意見を押し付けるような感じを受けます。
そう感じるのは何故か?
それは、
そこに "気持ち" がないから
だと思います。
不安になったり、
気持ちがモヤモヤ、ザワザワして
カウンセラーさんに
「どうしたらいいのかなと思って」
と相談すると、よく言われました。
どう "したらいい" か、じゃなく
どう "したい" のか、でいいんだよ
自分にとっての最善は、
自分が知っている。
いつも気持ちが教えてくれるから、
どうしたらいい、いけない、じゃなく、
自分がどうしたいか、なんですよね。
望みは何か。
本当に必要なもの、求めているものは何か。
それこそが、今の自分に最も必要なものなんです。
なのに、
気持ちの前に
"するべきこと" を決めてしまうと、
気持ちは置いてけぼりになります。
これは、抑圧です。
森田ゆりさんも言ってました。
感じて、考えて、行動する。
感情こそが言動の源であると。
なのでわたしは、
ずいぶん前になりますが、
"ねば" "べき" という考え方とは
さよならしました。
快適です
親として、こうあら "ねば" ならない
わたしはこういう考え方が苦手です。
"べき" "ねば" という言葉がつくと、
四方から追い立てられているような
イメージがあります

元々、私自身はそういうふうに考える
タイプではないのですが、例えば周囲の声、
親なんだから、もっとこうすれば?
とか
親なのに、そんなことでどうする
みたいな意見は、
直接ではないけれど、よく耳にしてました。
言い方は違うけど、
”ねば・べき”と意味は同じなんですよね。
どちらにも、せま~い枠に押し込める感じ、
意見を押し付けるような感じを受けます。
そう感じるのは何故か?
それは、
そこに "気持ち" がないから
だと思います。
不安になったり、
気持ちがモヤモヤ、ザワザワして
カウンセラーさんに
「どうしたらいいのかなと思って」
と相談すると、よく言われました。
どう "したらいい" か、じゃなく
どう "したい" のか、でいいんだよ

自分にとっての最善は、
自分が知っている。
いつも気持ちが教えてくれるから、
どうしたらいい、いけない、じゃなく、
自分がどうしたいか、なんですよね。
望みは何か。
本当に必要なもの、求めているものは何か。
それこそが、今の自分に最も必要なものなんです。
なのに、
気持ちの前に
"するべきこと" を決めてしまうと、
気持ちは置いてけぼりになります。
これは、抑圧です。
森田ゆりさんも言ってました。
感じて、考えて、行動する。
感情こそが言動の源であると。
なのでわたしは、
ずいぶん前になりますが、
"ねば" "べき" という考え方とは
さよならしました。
快適です
