司馬遼太郎が書いた、『覇王の家』や『義経』などの小説のなかに、「位打ち」というコトバがでてくる。
コレは、「その地位にふさわしいだけの、チカラ・のうりょく・じつりょくを持っておらず、伴っていないニンゲンを、わざと、たかい地位に就けて出世させる。そして、ミス・しっぱいを、何度もくりかえさせ、自滅・ハメツを誘う」という、公家が伝統的に持っている、カナリ狡猾で老獪な方法・手法らしい。
たしかに、その地位にふさわしいだけの、じつりょく・のうりょくを持っておらず、伴なっていないニンゲンが、たかい地位に就いてしまえば、カナリたかい確率で、たくさんのミス・失敗を、それこそ何度もくりかえすであろう。
そして、ダンダンと、まわりからの評判がおちるはずである。衰弱・弱体化して、しまいには、ぼつらくし、自滅・ハメツしてしまいかねない。
ニンゲンは、じぶんがたかい評価をされて、出世をして、たくさんのおカネ・けんりょくを手にいれてしまうと、カナリたかい確率で、じぶんのことを過信し、うぬぼれて、ごう慢になる。
じぶんのことを、「じぶんがほんらい持っている、じつりょく・のうりょく以上にスゴイ」と、カン違いしてしまいやすい。
現に、源平合戦の時代、木曽義仲や義経は、公家からコレをうけて、ほとんど自滅のようなカタチでほろんでしまった。ソレにたいしてイエヤスは、コレをつよく警戒した。
じぶんとてきたいする勢力・あいてと、「武力をつかい、直接的にたたかい、あらそい、ほろぼす」という武家とは違って、天皇・公家は、自前の武力を持っていない。
だからこそ、その分だけ、老獪・狡猾というか、こういう知恵・ノウハウというものが、発達したのかもしれない。
武力をつかった闘争、あらそい、たたかいは、比較的には、すぐに決着がつきやすい。そのために、シロ・クロが、勝ち・負けが、短期間でハッキリしやすい。
ソレにたいして、この「位打ち」という手法・方法は、じぶんのてきたい者を、直接的にほろぼす武力とは違って、「あいてを徐々に、すこしずつ、ダンダンと衰退させ、弱体化させる」という傾向・とくちょう・性質を持っている。そういう手法・方法といえる。
コレは、「すぐ効果がでない、遅効性の毒薬というものを、すこしずつ、あいてにたいして飲ます」ということに、とても似ていそうである
この「位打ち」というコトバを知っていれば、じぶんの持っている、じつりょく・のうりょく以上の出世であったり、あるいは、「じぶんがくわしく知らず、分からず、デキない、不得手・ニガテなジャンル・ぶんや・業界でシゴトをしたり、かつどうする」ということのリスク・キケン性を、じぶん自身ではあくし、にんしきすることができそうである。
アタリマエのことだが、「ニンゲンは、ダレであっても、たかい地位にふさわしいシゴトがデキる」というワケではない。
たくさんのニンゲンの上に立って、そのつど、テキセツなはんだん・けつだん・意思けっていをする。そして、たにんにたいして、テキセツな指示・命令をだす。その上さらに、それらの結果のせきにんを取る。
こういうことが、「どのようにガンバってみても、ムリであり、ニガテ・不得手である」というタイプのニンゲンは、一定数はいるかとおもわれる。
たとえば、No2までは、「優秀・有能であり、シゴトがデキる」とおもわれ、たかい評価をうけていたニンゲンがいるとする。
そして、じぶん自身がトップ・No1に立ち、「じぶんの上には、ダレもいない」という状態になった途端、「つぎつぎに、たくさんのミス・しっぱいを、何度もくりかえしてしまい、評価がさがり、きえていった」と、こういうタイプのニンゲンは、いるかとおもわれる。
こういうことは、カイシャにしろ、行政にしろ、ニンゲンの勢力・そしき・集団であれば、どこであっても、ありえるケースかとおもわれる。
副社長までは、たしかにすごかった。でも、社長になった途端、どうにもパッとしない。はんだん・けつだん・意思けっていを、まちがえてしまう。
であるとか、各省庁の大臣、官房長官、幹事長までは、優秀・有能であったのだが、首相・総理大臣になった途端に、やはり、ミス・しっぱいを、何度もくりかえす。
などなど、あらゆるジャンル・ぶんや・業界を問わず、こういうケースというものは、たくさんあるのではないだろうか。
世のなか・しゃかい・せけんには、「たかい地位には向かない、合わない」というタイプのニンゲンは、たしかにそんざいしている。
それなのに、そういうタイプのニンゲンが、たかい評価をうけてしまい、じぶんの持っている、のうりょく・じつりょく以上のたかい地位・たちばに出世をしてしまえば、アタリマエのことだが、つぎつぎに、ミス・しっぱいをして、ソレを何度もくりかえすはずである。そして、ぼつらくし、自滅・ハメツするという道を、突きすすみかねない。
世のなか・しゃかい・せけんには、「スゴイ出世をしたり、一代でおおきな勝利・成功を収めたニンゲン」のことを讃える本であったり、あるいは、「出世や成功のためのノウハウ・方法論」というものを書いた本が、たくさんそんざいしている。
そして、「スゴイ出世をしたり、一代でおおきな勝利・成功を収める」ということは、「ただしくて、良いことであり、善である」という風潮が、あるようにおもわれる。
あるいはコレは、「こういうことを、つよく期待し、もとめ、のぞんでいる」というニンゲンのおおさを、示しているのかもしれない。
だがしかし、「位打ち」というコトバと、そして、この「位打ち」によって、ぼつらくし、自滅・ハメツという状態に陥った、歴史上のニンゲンのことをふまえて、かんがえてみれば、「上のような風潮というものは、ダレにたいしても、ただしいことであり、良いことであり、善である」などとは、かならずしもいえないかとおもわれる。