ココ最近、じぶんがスキなげいのう人などを応援するコトを、「推し」というらしい。では、「今までじぶんに、そういうニンゲン・そんざいが、いたのであろうか」と、かんがえてみたときに、非げいのう人であるのだが、司馬遼太郎が、ソレにたいして該当し、あてハマりそうである。

 

 高校時代に、はじめて司馬さくひんを読んで、大いにハマったのであるが、その当時、テストのベンキョウや、受験ベンキョウが、まったく手につかず、タイヘン苦労したのをおぼえている。

 

 ナニセ、ベンキョウよりも、司馬さくひんのつづきのほうが、とても気になるのだから。ダイガクにたいして進学し、じゆうな時間が出来て、やっと本腰をいれて、司馬さくひんを、ジックリと読めるようになった。

 

 司馬さくひんは、ナニよりもまず、とにかくオモシロいのである。その上さらに、「絵のあるマンガよりも、読みやすい」という作品がある。

 

 絵がなくて、文字しかない小説であるハズなのに、読んでいると、まるでマンガを読んでいたり、映像さくひんを見ているような気分になってしまうのだから。

 

 読んでいるうちに、じぶんの脳内に、しぜんと絵がうかんでくるのである。そして、つぎに、絵がうごきだして、映像となって、アタマのなかに出現するのである。

 

 そうこうしているうちに、まるでじぶんが、本のなかにいるような気分・感覚になってしまう。

 

 しまいには、登場じんぶつにたいして、つよい感情移入をしてしまうのだ。そして、ダンダンと、じぶんの気分・感情というものが、高ぶってくるのである。

 

 しょうじきな感想として、「ヘタなマンガよりも、読みやすく、オモシロイ」とかんじたのをおぼえている。そして、じぶんの友人たちに、司馬さくひんを、勧めまくっていた時期もあった。

 

 もしかしたら、コレも一種の「推し活」になるのかもしれない。

 

 友人にたいして、司馬さくひんを勧めているとき、じぶんは、キリスト教をひろめる、宣教師にでもなったような気分であった。

 

 どうやら、「じぶんが心底から大スキであったり、あるいは、信じるコトがデキるモノゴトを、たにんにたいして勧めたり、共有者をふやしたい」というキモチ・感情は、ニンゲンが行動をおこすとき、つよい動機やりゆうになるのかもしれない。

 

 センゴク時代、キケンをかえりみずに、はるかとおいニホンにたいして、キリスト教の布教にやってきたという、フランシスコ・ザビエルなどの宣教師のキモチというものが、ほんのすこしだけ、わかったような気がした。

 

 盛んに「推し活」をしている今げんざいのニンゲンと、むかしの宣教師とのあいだには、もしかしたら、行動をおこすときの動機・りゆうに、意外と、類似点・共通点があるのかもしれない。