高校生のころ、日曜日に図書館で、テストのベンキョウをしていたのだが、つかれたときの息抜きとして、館内を、ブラブラとあるいていた。
そして、ふと本棚を見たときに、ぐうぜん、司馬遼太郎の『韃靼疾風録』が、目に入ったのである。
時間でもつぶそうかと、何気なく、その場で立ち読んだのであるが、1ページ目をめくって読んだ瞬間、じぶんの脳内に、絵がうかんできた。まるでマンガのように。
ソレだけではなくて、その絵が、やがてうごきだしたのである。つまり、アタマのなかで、映像がながれだしたのだ。まるで、映画・ドラマ・アニメのように。
アタリマエのコトだが、コレは小説なのである、モチロン、絵などナイ。あったとしても、ときどき、挿絵があるていどである。
だがしかし、読んでいるうちに、まるで、マンガを読んでいるような感覚・気分になった。そして、しまいには、映画・ドラマ・アニメなど、映像さくひんを見ているような感覚・気分にすらなった。
そして、いつの間にかじぶんが、17世紀初頭の平戸にいるような感覚・気分に、陥ってしまったのだ。
そのまま、閉館するまでの約3時間、その場で立ったまま、『韃靼疾風録』を、読みつづけたのである。
図書館が閉館する直前に、館内にチャイムがながれた。ソレを聞いて、「ハッ」となり、げんじつのセカイに、もどってきたような感覚・気分に陥った。
とてもじゃないが、このまま本を、本棚にもどす気にはなれなかった。つづきが気になって、しかたがなかった。
そのまま、図書館で本を借りて、家に帰って読みつづけた。そして、気がついたら、いつの間にか、朝になっていた。つまり、徹夜で読みつづけたのである。
そして、月曜日になった。となれば、アタリマエのコトだが、ガッコウにいかなければならない。
だがしかし、本のつづきが気になってしかたがない。とてもじゃないが、「このキモチを一旦整理して、ガッコウに行こう」などとは、到底おもえなかった。
つまり、登校する気になれなかった。ソコで、うまれて初めて、ガッコウを、ズル休みしてしまった。
こうして、『韃靼疾風録』を読みおえたのである。しばらくのあいだ、アタマがボーっとしていた。ナニもかんがえるコトがデキない。そういう状態が、つづいたのである。
やがて、気分がおちついてきた。そのときに、ふとしたギモンが、アタマにうかんできたのだ。
そのギモンとは、「この本だけがオモシロくて、ほかの本は、つまらないんじゃないのか?」というものであった。
つぎの休日、ふたたび図書館にいった。そして、『韃靼疾風録』があったばしょにいくと、そのトナリにあったのが、『国盗り物語』であった。
この本を読んでみると、やはり、読んだ瞬間に、じぶんの脳内に、絵がうかんできた。そして、やがてその絵はうごきだし、映像となったのである。
じぶんのアタマのなかで、映像がながれている。そして、いつの間にかじぶんが、センゴク時代の初期の京都に、そんざいしているような感覚・気分になった。
しばらくのあいだ、『韃靼疾風録』のときと、おなじように、その場で立って読みつづけた。気がついたら、いつの間にか、閉館時間となっていた。
ふたたび、本を借りた。そして、イエに帰って読みつづけた。読みおえたあと、「この世には、ホンモノの天才がいる」というコトを、思い知ったのであった。
じぶんには、司馬遼太郎は、「天才的な作家」であると同時に、「手品師」におもえる。ナニセ、小説という文字だけの本なのに、読んだ瞬間に、じぶんの脳内に、絵や映像がうかび、その上さらに、うごきだすのだから。
初めて司馬さくひんを読んでから、カレコレ、30年近く年月が経ったのであるが、いまだに、この手品師を超えるようなニンゲンに、出会えていない。
つまり、司馬遼太郎を超えるような小説に、出会うコトがデキていない。どうやら30年近く、じぶんは、「司馬遼太郎の手品」に、魅了されつづけているらしい。