灯台下暗し。というコトバがある。つよいヒカリを放っている灯台であっても、その足元は暗くなる。

 このコトバは、「たいせつ・重要なことは、じぶんのすぐ近くに、身近にそんざいしている」というイミらしいが、もしかしたら、まったくべつの解釈も可能かもしれない。

 たとえば、おおきな勝利・成功を収めることができた。そのために、たくさんのおカネ、つよいチカラ・けんりょく・権威であったり、たかい地位や名声を得ることができた。

 と、こういうタイプのニンゲンは、まさに、「つよいヒカリを放っているニンゲン」と、言うことができそうである。

 この光っており、つよく輝いているニンゲンは、そのヒカリがつよい分だけ、その身近において、濃いカゲをつくりそうである。

 ここでいう「カゲ」とは、不運や不幸のことである。たとえば、シゴトにおいて、おおきな勝利・成功を収めることができても、じぶん自身だけではなくて、家族など、身近なニンゲンもふくめて、びょうき・事故・ケガに遭って、ケンコウを損ねたり、あるいは、はんざい者にねらわれて、ひがい者・ギセイ者になる。などなど、おおきな不運・不幸がやってくるケースは、あるかとおもわれる。

 こういう視点・発想・かんがえかた・スタンスに立ってみると、この典型的なケースとして、ヒデヨシのナマエが、アタマにうかびそうである。

 センゴク時代において、おそらく、当時における最下層ともいえる、まずしい状態・身分から、たった一代で、この国のトップに立ち、まさに栄耀栄華・頂点を極めたのがヒデヨシである。

 このヒデヨシのじんせいは、つよいヒカリを放っており、輝いていたといえる。まさに、「光り輝くニンゲン」であったかとおもわれる。

 だがしかし、ヒデヨシにいた身近なニンゲンたち、つまり、かれの一族の末路というものは、カナリ悲惨なケースがおおい。

 司馬遼太郎は、「豊臣家の人々」という小説で、ヒデヨシの一族が、ヒデヨシの大成功によって翻弄され、じんせいが激変していくスガタを描いた。

 そして、ほとんどのニンゲンが、ヒデヨシの成功によって、つまり、ヒデヨシのチカラによって、一時的に、おおきな出世・成功を手にしている。だがしかし、さいごはヒドイ目に遭っている。

 コレは、並みのレベルのずのう・のうりょく・さいのう・資質・知能を持っている、フツウのニンゲンが、じぶんの持っている、じつりょく・のうりょく以上のおカネ、けんりょく、地位や名声を手にいれてしまうと、ヒドイ目に遭ってしまう。というスガタ・ようすを、描いたともいえそうである。

 たった一代で、おおきな勝利・成功を収めることができたニンゲンと、近いキョリにいるニンゲンは、否が応でも、巻き込まれざるをえない。ほんにん自身の意思とは、まったく無かんけいに。まして、一族・家族ともなれば、なおさらであろう。

 どうやら、「分を弁えろ。身の丈を超えるな。身の丈に合うことをしろ」という、むかしからの処世訓・教訓は、ヒデヨシの一族たちの悲惨な末路を見ていると、しんじつかとおもえる。

 天才のコドモ・家族・一族が、おなじように、天才であるとはかぎらない。「天才のコドモがパッとせず、ぼんじんや、ソレ以下である」というケースは、政治家、企業けいえい者、げいのう人、げいじゅつ家など、ジャンル・ぶんや・業界を問わず、掃いて捨てるほどあり、すぐにアタマにうかぶ。

 どうやら、じぶんの身近な家族が、過度におおきな勝利・成功を収めてしまうと、そのまわり・身近にいる、フツウのぼんじんには、かえって毒であり、過度におおきな不運・不幸を呼ぶのかもしれない。