ひとはだれでも、うまれもった性格というものと、おおきくちがっており、むじゅんするようなかんきょうのなかでは、いずれは、たえられなくなるらしい。がまんができなくなるといってもいい。
ということであれば、やはり、「おかれたかんきょうによって、ひとの性格はすべてきまる」ということは、どうやらなさそうである。
だがしかし、それでも、うまれそだったかんきょうから、おおきなえいきょうをうけるはずである。うけざるをえないはずである。
とくに、うまれもった性格と適合しており、なじみやすいかんきょうであれば、ひとは、「そのかんきょうがもたらすものから、つまり、じぶんがたいけんするという、たくさんのじけん・できごとなどから、おおきなえいきょうをうける」といえるのではないだろうか。
そして、たいていのひとであれば、じぶんがたいけんしたという、たくさんのじけん・できごとなどから、なにかしら、きょうくんを抽出するということがおおい。
とくにソレが、わるいマイナスのできごと・もんだいであれば、「もう二度と、こんなおもいはしたくない」とかんがえるはずである。だから、「このしっぱいを、くりかえしたくない」とおもうことになる。
そして、「このたいけんしたじけん・できごとから、なにかきょうくんを抽出して、さいはつをふせげないだろうか」とかんがえることになる。
どうやら、こういうつみかさねもまた、ひとの性格をかたちづくるようである。このようにかんがえてみると、やはり、「おかれたかんきょうが、ひとの性格をかたちづくる」というぶぶんも、おおきいようである。
ということであれば、やはり、あたりまえのことではあるのだが、たくさんのことをけいけんしたひとほど、じぶんの性格がつよくかたまり、かたちづくられるということになる。こういうけっかになりやすいはずである。
こういうことについてかんがえてみれば、「ちいさなコドモよりも、オトナのほうが、じぶんの性格をつよくもっている」ということは、あたりまえといえそうである。
あたりまえのことではあるのだが、ちいさなコドモであれば、アタマもココロもカラダも、まだはったつのとちゅうであり、じぶんがけいけんしたこともすくない。
だからこそ、オトナとちがって、性格が、まだハッキリとかたまってない。つまり、できあがっていない。
そうであれば、「じけん・かんきょうが性格をつくるよりも、性格がじけん・かんきょうをよぶ」というかんがえが、もしもただしいのであれば、ちいさなコドモよりも、オトナのほうが、この指摘にたいしてあてはまりそうである。
じぶんの性格というものが、ハッキリとかたまっているのであれば、その性格にあったじけんをよぶことも、じゅうぶんにありえるであろう。
だがしかし、じぶんの性格というものが、まだハッキリとかたまっていない、ちいさなコドモであれば、じけんを呼ぼうにも、そのげんいんとなる性格がハッキリしていない。ちゃんとできあがっていない。だからこそ、呼びよせるじけんのかずはすくなそうである。
このようにかんがえてみると、やはり、オトナとなったひとは、じぶんの性格というものを、じぶんでちゃんと、はあくしたほうがよさそうである。
ソレをちゃんとはあくすると、100%かんぺきにはムリだとしても、「これからさきのみらいで、じぶんに、どういうじけん・できごとがおこるのか」ということを、じぜんによそくすることが、すこしならばできるかもしれない。