性格とみらい | 末永慎のブログ

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ひとはだれでも、うまれもった性格というものと、おおきくちがっており、むじゅんするようなかんきょうのなかでは、いずれは、たえられなくなるらしい。がまんができなくなるといってもいい。

 

ということであれば、やはり、「おかれたかんきょうによって、ひとの性格はすべてきまる」ということは、どうやらなさそうである。

 

だがしかし、それでも、うまれそだったかんきょうから、おおきなえいきょうをうけるはずである。うけざるをえないはずである。

 

とくに、うまれもった性格と適合しており、なじみやすいかんきょうであれば、ひとは、「そのかんきょうがもたらすものから、つまり、じぶんがたいけんするという、たくさんのじけん・できごとなどから、おおきなえいきょうをうける」といえるのではないだろうか。

 

そして、たいていのひとであれば、じぶんがたいけんしたという、たくさんのじけん・できごとなどから、なにかしら、きょうくんを抽出するということがおおい。

 

とくにソレが、わるいマイナスのできごと・もんだいであれば、「もう二度と、こんなおもいはしたくない」とかんがえるはずである。だから、「このしっぱいを、くりかえしたくない」とおもうことになる。

 

そして、「このたいけんしたじけん・できごとから、なにかきょうくんを抽出して、さいはつをふせげないだろうか」とかんがえることになる。

 

どうやら、こういうつみかさねもまた、ひとの性格をかたちづくるようである。このようにかんがえてみると、やはり、「おかれたかんきょうが、ひとの性格をかたちづくる」というぶぶんも、おおきいようである。

 

ということであれば、やはり、あたりまえのことではあるのだが、たくさんのことをけいけんしたひとほど、じぶんの性格がつよくかたまり、かたちづくられるということになる。こういうけっかになりやすいはずである。

 

こういうことについてかんがえてみれば、「ちいさなコドモよりも、オトナのほうが、じぶんの性格をつよくもっている」ということは、あたりまえといえそうである。

 

あたりまえのことではあるのだが、ちいさなコドモであれば、アタマもココロもカラダも、まだはったつのとちゅうであり、じぶんがけいけんしたこともすくない。

 

だからこそ、オトナとちがって、性格が、まだハッキリとかたまってない。つまり、できあがっていない。

 

そうであれば、「じけん・かんきょうが性格をつくるよりも、性格がじけん・かんきょうをよぶ」というかんがえが、もしもただしいのであれば、ちいさなコドモよりも、オトナのほうが、この指摘にたいしてあてはまりそうである。

 

じぶんの性格というものが、ハッキリとかたまっているのであれば、その性格にあったじけんをよぶことも、じゅうぶんにありえるであろう。

 

だがしかし、じぶんの性格というものが、まだハッキリとかたまっていない、ちいさなコドモであれば、じけんを呼ぼうにも、そのげんいんとなる性格がハッキリしていない。ちゃんとできあがっていない。だからこそ、呼びよせるじけんのかずはすくなそうである。

 

このようにかんがえてみると、やはり、オトナとなったひとは、じぶんの性格というものを、じぶんでちゃんと、はあくしたほうがよさそうである。

 

ソレをちゃんとはあくすると、100%かんぺきにはムリだとしても、「これからさきのみらいで、じぶんに、どういうじけん・できごとがおこるのか」ということを、じぜんによそくすることが、すこしならばできるかもしれない。