日本人が、はじめで独自に考えてつくった統治機構・体制は、ひとりの皇帝による独裁体制でなく、「各地に中小規模の勢力があり、たくさんの勢力のバランスのうえに成りたつ」というものだった。
中国の歴代王朝や、帝政ロシアやオスマントルコのように、「強大な権力をもつ独裁者の皇帝と、その手足の官僚がいる」という中央集権でなかった。
この「皇帝独裁」なら、皇帝の命令は、その国や王朝の支配地であれば、全土にとどくかたちになる。「特定の地域に、皇帝はまったく命令できない」はおかしい。そこは、その国や王朝の支配地といえない。
中国の歴代王朝、帝政ロシア、オスマン・トルコの皇帝が、「自国の支配地・領土だが、この地域に、自分はまったく命令できない」はおかしい。それは皇帝といえない。
この状態なら、その皇帝の権力は、かなり弱体化していることになる。体制が滅びるまえや、滅びだすときなら、この「特定の地域に、皇帝はまったく命令できず、現場の人も、皇帝の命令をきかない」はありえるかもしれない。
だが基本的に、その国や王朝の支配地ならば、全土に命令がいくはずである。
これにたいし、日本人が、はじめて独自に考えてつくったのは封建体制だった。これは、最高権力者の将軍でも、特定の地域や、他の勢力である大名のなかは、直接的に命令はできない。
日本の封建体制で、もっとも安定した江戸幕府も、将軍といえども、他の藩の領地のなかは、直接的に、自分が命令はできない。
最終的に幕府をたおした、仮想敵国だった外様の薩摩藩・長州藩のなかに、将軍が、「この政策をするから、したがえ、こうしろ」といえない。
その領地のなかは、薩摩藩と長州藩の藩主が統治していた。つまり、領地の武士・役人に命令する立場なのは、将軍でなく藩主である。
ならば、将軍といえども、日本の全土を、自分のおもいどおり指示できないかたちになる。
これにたいし、皇帝の独裁体制なら、どの地方も、自分が命令できるはずである。もし江戸時代が、皇帝による強い中央集権体制なら、「薩摩や長州の地域は、最高権力者でも命令できない」はおかしい。
皇帝による強い中央集権体制では、各地方にいる行政官は、しょせん皇帝の部下にすぎない。つまり、皇帝が任命した官僚・役人が、現地に行っているだけにすぎない。
逆にいえば、だからこそ地方の権力者は、中央にいる皇帝の命令に従う義務・責任があるといえる。
だが封建体制では、中央にいる最高権力者の将軍も、各地の藩の領地にたいして、直接的に「こうしろ・ああしろ」といえない。
間接的に、政治的な圧力をかけることはできるが、直接的に、相手に強制させる命令権はない。
日本人が、はじめて独自に考えてつくった体制が、この形態だった。
ならば日本人は、すべての領土・分野・領域を、ひとりの人間が支配して命令できる状態、つまり独裁体制を、嫌う性質があるとみてよさそう。
これを前提条件に考えれば、強すぎる独裁をすると、圧倒的にたくさんの日本人が、耐えがたい不快感をおぼえるとみてよい。
だからこそ、この状態を、ながい歴史のなかで、必死に防いできたともいえそう。
例外的に、独裁者にちかい状態となった人を考えると、ともに大変革・革命期に活躍し、あたらしい体制・統治機構をつくりだした織田信長と大久保利通がいる。
この二人は、それまでと、おおきく違う体制・統治機構をつくるため、おおくの敵対者・反対派と激しく戦い、強い反対・抵抗にあった。
だから、改革・革命を成功させるため、強い権力を自身がにぎる必要があった。だが、二人のおこなう改革・革命が一段落し、他に自身を上まわる権力者・強者・勢力がいなくなった、まさにその段階で殺されている。
たとえ信長が「本能寺の変」を、大久保利通が「紀尾井坂の暗殺」を避けれても、どこかの段階で、似た事件・出来事がおき、やはり殺されたかとおもえる。
日本人が、はじめて独自に考えつくった統治機構・体制は、たくさんの中小勢力の存在をみとめ、そのバランスのうえに成りたつものだった。かつ、それが700年ちかくもつづいた。
ならば、この状態こそ、日本人が「あたりまえ」とおもえ、不自然・違和感をいだかない。もっというと、不愉快さ・嫌悪感などが少ないものといえそう。
いい方をかえれば、これと逆の状態になると、ほとんどの日本人は、耐えがたいほどの不自然さ・違和感・不愉快さ・嫌悪感などをいだき、「おかしい、なんとかしないと」とおもうのかもしれない。