さて、この後遺症がいつまで続くのか。

生卵は一度茹でたらずっと茹で卵。
そのように、この体はもう元には戻らない。

でも、生きていかないとならない。
働けなくても、親が死んでも、兄弟が離縁しても、親せきがいなくとも、
どうやったって、生きていかないとならない。

一人で働いて生きてきた。
それができなくなった。

そのとき、社会はどうするか。
おおかた、見捨てる。
距離をとって、様子を見られる。
関わらないようにする。

そんなものです。

「この貯金、使って」
「うちで一緒に生活しよう」

そんなことを言って、ほんとにしてくれる人はいないです。
病院も、社会も、同じです。

それでも。

それでも、生きていかないとならない。
そのために、社会保障を受けなければならない。
どんなに拒否しても、貯金は底をつき、信用はなくなっていく。

プライドも何もかも捨てて、お世話になるしか、ないのです。
「稲穂の穂さんってね、10年も薬飲んでて、両親に暴言はいたり、感情も起伏が激しくて、
もう死にたいとか言ってたのに、薬辞めてから、どんどん元気になって、感情も穏やかで、目つきもギラギラしてなくて、もともとはこういう人だったんだなって・・・ほんとに自分のことよりうれしい」
会う人会う人に私を紹介するときに、そういってくれる人がいる。
私と普通に話をしているとき、ふと普通にしている私をみて、急に涙が出そうになる時があるといってくれた。

「稲穂の穂さんが、立って歩いてご飯を食べてる・・・泣いてもいい?ほんとに死んじゃうかと思ってた」
寝たきりになって死にたい死にたいと泣いていた頃を目の当たりにしていた友人は、
街中で再会した時に涙を流してそういってくれた。


「なんか、目がやさしくなったな、きっと環境がいいんだな」
薬を飲んでいたことも。辞めたことも伝えていな友人に久しぶりに飲みに誘われて、ふといわれた言葉。

「稲穂の穂ちゃん、顔色が赤く、よくなった。前は痛々しい感じだったけど、今、可愛い」
私のほっぺたを触り、「全快祝い」とケーキを御馳走してくれた方がふと、そういってくれた。

この一週間で本当に言われた言葉たち。
自分は特別美人ではないが、肌は白くもち肌で、それは自分の長所だった。
でも薬を飲み始めてから、「肌綺麗ですね」と言われることはなくなっていった。
「きれい」「かわいい」というセリフは、女性なら本音でなくとも挨拶で言われたい言葉。


この10年でどこかに置いてしまったこの言葉。
自分の元に戻りつつある言葉。
自分は今の自分に満足などできてはいないけれど、それでも出会う人には3か月前の私とは、
大きく変わっているようだ。



「奇跡の人だね」


私が10年も薬に侵されて、廃人になっていたのを、薬を辞めてなんとか立ち直ったこの姿をみて、「奇跡の人だね」と口々に言ってくれた。


そう、向精神薬を辞めるのは、奇跡に近い確率で難しい。

どうしてか。
辞め方がわからないから。
だれも指導など十分にできないから。

本気で飲めば飲むほど体が壊れていく。それほど、手を出してはいけないもの。
出されても、飲まされても、それが医師であろうが看護師であろうが薬剤師であろうが
親であろうが子であろうが恋人であろうが家族であろうが信頼している誰であろうが、
絶対に口にしてはいけない。

私の体は、もう元には戻らない。
二度と。
それは、医療者と恋人と友人と家族を信じて、
体を信じなかった、私の体からの、復讐。

この復讐は、受けて立つ以外に方法はない。
死ぬまで。



左半身のしびれ、運動麻痺、つらい。

頭、顔面、指、手、腕、肩、腰、太もも、ひざ、脛、足の指、甲・・・
全部。

変でじりじり、力も入らないし、皮膚感覚も鈍い。
脳こうそくの後の麻痺の方のような症状。
ぶにぶにして、自分の体じゃないみたい。

つらい。
これはつらい。

整体マッサージのお姉さんは、皮膚を触ると、「ここから先、痺れてるね」とわかってくれる。
すごく救い。
わかってくれる人なんていなかったから、この主観的なつらさを、客観的にもわかってくれて、
かつその方もしびれを経験しているので、主観的なつらさも理解してくれる。
人の痛みやつらさをわかるには体験しないとわからないことがある。
その存在は、大きい。

「全部左なんだよねー。交通事故の影響もあるし、いろいろ複合的だね。」
そう、私は交通事故にもあってしまい、症状がさまざまあるのです。
事故だって、薬の影響でない、とも言い切れない。
事故の話は、まだ後日。

「全部左側だから、突然しびれがぶわっとなくなるような気がするんだよな。
でも、時間かかるわ。これは。うちに来てまだ一か月半でしょー。
三か月くらい経ったらもう少し変化出てくるかも。」

とても腕のいいお姉さんなので、私は信用してます。
この「良くなる気がする」の言葉も私にはすごく励みになりました。
そう、このしびれ、体に残ってしまっては困るのです。

だから、なんとかして回復させたい。

今日は温熱刺激と寒冷刺激を交互に与える療法を始まました。
本当は蒸しタオルを使うのがいいのだけど、今日はシャワーで。

顔、から全身。
冷やしては、温める。
冷やしては、温める。
そうするうちに、細胞は活性化して修復されていくのだとか。

なんだって、やるしかない。
左半身よ、血流良くなっておくれ!!!
砂漠。
年齢はもちろんあるけれど、それとは違う症状、砂漠。
全身の脱水状態。
これが半端ない。

髪、頭皮、顔、目、鼻、口、喉、全身の体、水分をとってもとっても潤わない。
だから水分だけでなく、油分の補給をします。
全身にボディ用オイルをぬり、しその実油をドレッシングにして20ミリくらいを野菜にかけて、最後まで飲み干す。
意味があるのか、わからないけど、やる。
MOKO'Sキッチンなみにオイル必要かも。

そう、向精神薬のような化学物質は、水溶性でなく、脂溶性。
だから、尿からの排出は及ばす、油の交換が必要なのだとか。
誰の話を参考にしているかというと、
都内で向精神薬の断薬専門クリニックを開院した内海聡医師のブログや、書籍。

その信憑性はわからないけど、少なくとも私より知識の根拠付けは深い。
尋常じゃない老化。
今日も私の呼吸器は、空気がでると、ヒューといいます。
どこまでも、砂漠。

焼け石に水アイテム紹介します。

ATHANOR(アタノール) セタマッサージオイル。
$大波小波 向精神薬、処方薬依存を乗り越える日記
この使用歴は結構長かった。
服薬を始める前くらいからだったかな。
しばらくやめていたけど、最近また始めました。
入浴後、乾燥時に塗りたくります。


髪の毛にもオイル。
olioseta オーガニックアルガンオイル。
$大波小波 向精神薬、処方薬依存を乗り越える日記-olioseta オリオセタ オイル トリートメント

バサバサ落ちてくる髪の毛、少しでも滑らかに。
ジメチコンとか有害物質入ってるけど、仕方ない。
なかなかいいです。
こんなことにも目がいかなくなっていたんだよね。

そして、しその実油。
BOSO 一番絞りしその実油。

$大波小波 向精神薬、処方薬依存を乗り越える日記-一番しぼり しその実油

体内の脂肪組織に溜まった化学物質、少しでも変換したいから。
本当は、低温サウナで汗をかくときに使うみたい。
低温サウナは服薬前期、エステでよくやっていました。
いいことをしていたのに今頃気づく。
低温サウナ、購入しないと。


プラセンタのサプリメント。
PLACENTA RECELL(プラセンタ リセル)
$大波小波 向精神薬、処方薬依存を乗り越える日記-PLACENTA RECELL(プラセンタ リセル)

自律神経を整える働きを助けるとか。
注射でのプラセンタには躊躇してたけど。生に近い胎盤のサプリメントなら!と
始めています。


プラセンタの美容液。
REFINE (リファイン)
$大波小波 向精神薬、処方薬依存を乗り越える日記-REFINE(リファインプラセンタ)

とにかく、白い肌が自慢だった私、すっかり何も言われなくなりました。
それは手入れだけの問題ではない。
年齢だけの問題でもない。
確実に体に毒素が蝕んでいて、肌が老化していったのです。
くすんでいた、しみもめだつ、不健康な肌、少しでも生き返れ。
その願いは少しずつ届いてきました。


こういうケアをもし服用中にもっとしていれば、変わったかもしれない。
でも、そんな気にならなかった。
そんな余裕がなかった。
「たら、れば」は人生にないのが、現実。
気づいたら、始める。
できたら、続ける。
砂漠への飽くなき抵抗。

ドキドキ
似た経験、同じ経験をされた方、この記事に興味がある方、是非お気軽にコメントを下さい。励みになります。
端的にいうと、私は幼少時に性被害にあった。
その被害にケアがされなかったために、心の傷が出血したまま、ぐじぐじと痛み、
化膿して、数十年して、膿が出てしまった。
典型的なPTSDである。

目心的外傷後ストレス障害(しんてきがいしょうごストレスしょうがい、Posttraumatic stress disorder:PTSD)は、危うく死ぬまたは重症を負うような出来事の後に起こる、心に加えられた衝撃的な傷が元となる、様々なストレス障害を引き起こす疾患のことである。(ウィキペディアより)

この診断ともう一つ、人格解離が起こり、私はカウンセラーに病院送りを宣告された。


ビックリマーク以下閲覧注意です。似たような経験がある方はフラッシュバックに注意してください。

誰にでもあるかもしれない忘れ去りたい過去。
心の痛み、その痛みが痛みだとわかるまで、数十年かかることがあった。
天災のように降りかかった悪夢の時間。

それはまだ10歳に満たないときの出来事。
父の職場の旅行に一泊で出掛けた。
母や兄弟はその日に限ってこなかった。
たくさんの大人の中、数人の子どもも混じっている。
割と人見知りだった私は、子ども達と打ち解けるよりは、父の後についていった。

宴会の場で大声で話しかけてくるおじさんがいた。
妙に明るく幼心に「変わった人」と思った。
「芸能人の○○に似ていてかわいい!」などといった具合だ。
引きつり笑いになった。

夜になり、私は眠くなったのかあまり記憶がない。
ふと目を覚ますと、天井。
左に違和感がある。
誰かが私の服を触っている。
右に父親の背中がみえる。

左から手が伸びていて、私のパジャマを脱がせようとする。
「誰だ?」
抵抗しても抵抗しても。
「くすくす」ニヤニヤ笑っている。

みると、さっきのおじさんだ。
「たすけて!!!!!!!お父さん!!!!起きて!!!」
何度か声をふりしぼってみるが、声は出ず、父は起きない。

「くすくす、お父さんを呼んでいるの?」ニヤニヤ。
サーっと全身から血の気が引いた。
なんとか身の危険を避けるためにトイレに逃げ込んだ。

どうやら、職員や家族は各部屋に別れて寝ている。
私は父と二人、そのおじさんと三人での相部屋に配置されたようだ。
よりによって、父、私、おじさんの順番で布団に寝ていた。

北国の雪のロッジ。
ストーブのないトイレの寒さは底冷え、留まるのは限界があった。
「どうしよう・・・こわいよ・・・」ひとりつぶやくが時間が一向に過ぎない。
慣れない旅行、はじめての危機、その危機の意味も理解できなかった。
声が出ない。誰に救いを求めていいのかわからない。

静か過ぎる冬のロッジ。
寒さに堪えきれずトイレから戻ると、父の肩を揺らすが、一向に寝ている。
その一部始終をくすくすと、にやにやと笑っているおじさん。

どうしてそうしたのか。
私は自分の布団にまた戻ってしまった。
そこから地獄が始まった。

・・・・

それ以降記憶がない。
思い出そうとすると頭が痛い。

翌日、私はレジャーには参加せず、父に「どうした?」と聞かれたが何も答えられなかった。「いやだ」とぽつりと言った。それ以降口を開けなかった。

気がつくと、自宅の部屋にいた。
うつむいて、正座をしている。
畳にひいたゴザの上。
夕暮れどき、母が「どうしたの?」と声を掛けにきた。
答えられなかった。
母は部屋を去った。

・・・・

また記憶がない。

・・・・

この出来事を何度か友人や恋人に打ち明けたことがあった。
が、あまり真剣に受け止めてもらえなかった。
時代だったのだろうか。
志村けんの「変なおじさん」ブーム、学校や界隈には「露出狂」や「お菓子をたべないか?」と小学生に話しかけてくる人、不審者が多くなっていた。
恐怖のあまり私は、自分もその手の被害にあったことをねじ伏せ、心の底にしまった。

でもそれは、酷い形でぶりかえってしまった。

27歳になったばかりの、もうすぐ春が訪れる季節だった。
あの夜から16年が経っていた。

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