よく、小説や映画、ドラマなどで、「永遠の愛」という言葉を耳にする。
ここで諸君に改めて問いたい。「永遠の愛」などというものは、そもそも実在するのだろうか。また、もし仮に実在するとして、それは真に心地よいものだろうか。
人間は、永遠を尊いもののように扱い、刹那を否定する。近年では、人生百年時代なる標語のもと、人生設計という言葉を耳にする機会も多いのではないか。また国際社会では、持続可能な社会を訴えるSDGsが叫ばれている。このようにして、永遠というものに少しでも近づこうと手を伸ばし続けてきたのが、あるべき人類史として今なお屹立する。
しかし、だ。永遠というものが本当に幸福のあるべき姿なのであろうか。小生は思うのである。予測不可能な未来のために、堪え続けるのが本当に幸福なのかと。固着した「幸福」が、真に幸福なのかと。
そんなことは断じてありえない。なぜなら、人間の生の本質は、活動し、変化し続けるものだからである。ゾーエ―ではなく、ビオスこそが人間の自然な状態である。そして、その動的な状態の結晶こそが、恋愛なのである。
彼らは言う。我々が今勤勉になることで、老後に資金の蓄えをつくり、安心して暮らせると。
嘘をつけ!名もなき未来のために人間性を破却する人でなしめ!
老後を長く生きたところで、決して永遠にはなれない。なるほど、医療発達により、人間の肉体は99.9999……まで永遠に近づけるかもしれない。だが、100の永遠は絶対に勝ち取れない(勝ち取ったとすれば、そのときはすでに死を迎えている)。現在から目をそむけ、そのようなありえない夢想に固執するだけの者に、未来を語る資格はない。我々の幸福は、恋愛を謳歌する刹那にこそ存在する。
彼らは言う。我々が化石燃料の消費を抑えることで、子々孫々に持続可能な環境保護社会を受け継ぐことができる。それにより、人間は永遠の座にまた一歩近づくことができると。
嘘をつけ!名もなき未来のための自己犠牲に陶酔する偽善者め!
我々が環境保護をするのは、そこにいる動物たちへの愛に基づかなければならない。メスをめぐって戦うシロクマを見たいからだ!ペンギンのセックスを見たいからだ!そして何より、そこに彼らの愛があるからだ。
永遠とは、活動・変化を捨てたという言う意味で、一種の死である。永遠は顔を持たない。そんなものに肩入れすることは、人間性を失ってしまう。
対して、愛は、活動し、変化し続けることである。顔の見える者への、刹那的で、無償の感情である。確かに愛は持続しない。しかし、その刹那、恋愛をしていることだけは絶対に消えない。
恋愛とは、活動し続けることである。恋愛とは、変化し続けることである。恋愛とは、生きることである。
真なるloverになりたいと思うのであれば、その刹那の愛を謳歌せよ!それは春雪のごとく消え去るものかもしれないが、今、恋愛をしているということだけは真実なんだ!
「永遠の愛」など求めてはいけない。そんなものは、「死にながらにして生きる」という、ただの二律背反である。故に、俗悪極まる。
「アリとキリギリス」の逸話から、何を学べるか?勤勉さか?
否。キリギリスが真のloverであるということだ。彼らの生み出す愛の歌に、毎年秋になると我々は魅了され、我々自信の愛を見出す。なんとも立派なloverではないか!