諸君に改めて問おう。諸君が今見ているものは、<真なる世界>か?

 

 大方の人が、自分は<真なる世界>を見ている、と、当然のように答えるだろう。しかし、小生に言わせれば、おそらく諸君の6~7割は、答えを誤っている。この6~7割とは、眼鏡やコンタクトレンズを装着している者である。

 

 眼鏡やコンタクトを装着している諸君は、そっと外してみよう。諸君の眼前には、ぼんやりとした世界が広がるだろう。文字はぼやけて見え、絵は判別できない。人によっては、顔が判別できない者もいるかもしれない。

 そう、そのぼんやりとした世界こそが、諸君の内にある<真なる世界>である。眼鏡をかければ、ものがはっきりと見える。しかし、それは<真なる世界>ではない。

 しっくり来なければ、顕微鏡や望遠鏡を想像すればよいだろう。ぶつぶつとした葉緑体の映るものを見て、誰が葉っぱと思うだろうか。ぼこぼことしたクレーターを見て、誰が月だと思うだろうか。

 すなわち、レンズを通して映し出される世界は、本質的には、我々の内にある<真なる世界>とはかけ離れた不自然なものである。レンズを通して映し出される世界は、光の屈折現象により映し出される現実の虚像にすぎない。ただ、眼鏡をかけて見える世界が日常生活に都合がよいという理由から、我々は眼鏡を見ている世界が真実であることを自明の理として受け入れているにすぎない。

 

 だがしかし、恋愛とは、自身の内にある<真なる世界>を指す言葉である。たとえそれが判然としないものであっても、それを抱擁せねばならない。

 例えば、諸君が愛しき人に「今週末会わないか?」と連絡したとしよう。すると、それに「今週末はちょっと忙しくて」と返事が来る。諸君は想像するだろう。本当に忙しいのか、それとも暗に断っているのかと。あるいは、返事を送った側も考えるだろう。「自分の返事によって、断ったと思われてしまうかもしれない。」「断ったことで、今後気まずい関係になりはしないか」と。

 その通りである。この行き詰まりの思考状態こそが、<真なる世界>であり、恋愛である。しかし小生が浮世を垣間見た所だと、これを理解せず、未知の世界に対して一定の解を与えた上で、それを仮定として行動する者も少なからず見受けられる。すなわち、「相手が自分のことを嫌いなわけがない」や、「〇〇さんはうまい言い逃れをするようなタイプではない」などと、決めた上で行動する者である。

 小生に言わせれば、このような人物はloverの風上にも置けない。このような人物は、日常生活においては、「自信がある」「行動力がある」というように高い評価を受ける場合もしばしばある。しかし、<真なる世界>を至上とするloverとして見ると、もってのほかである。

 

 故に、小生は提言する。ただ迷妄を抱擁せよ、と。なぜなら、それが<真なる世界>である。その結果漏れ落ちる叫びや嘆きがあるとすれば、それは恋愛の乳である。

 

 我が恋愛革命は、<真なる世界>からの逃避ではない。<真なる世界>の探求である。

 

 一流のloverになろうとするのであれば、<真なる世界>を見出すことを忘れた者に愛の鳥は止まらないということを、ゆめゆめ忘れてはいけない。眼鏡を外し、迷妄のうちの<真なる世界>を抱擁せよ。