おはようございます~


書いたら長くなったので、お時間ある方はどうぞ笑

↓↓↓↓


昨日の仕事からの帰り道。


このとき。


私は真剣に、

スケールの大きなことを考えていました…


”人間とはなんぞやと…”


歩いていると、猫が目につきました。


「お?団子になってて可愛い」


と、写真を撮りました。


で、今朝、見てみると…




めっさ睨まれとる…笑笑

怖いーーーヤンキーがおるーーー(´;ω;`)


私、猫が苦手だったんですよね。
何考えてるのか分からなくて。
突然、噛んできたり、引っ掻いてきたり。
断然、犬派でした。

でも、大人になるに従って、最も分からないのは人間だわ…
ってことに氣づいたときには、私にとって猫も同じだと理解したんですね。

分からないから、怖い。
分からないから、理解しようと努める。
分からないから、行動を観る。
分からないから、理解するための知識を入れる。

前提としての”理解したい”が必要なのですね。

私はこれまで他人に向けてこれをやってきました。
「人間を理解しなければ、何がやってくるか分からないから怖い。」
そう感じて、人間心理の探求を続けてきました。
そして、怖さの最たるものは、ジブンでした。

七つの習慣という本をご存知でしょうか?

影響の輪という概念があるのですが、それは自分がコントロールできるところしか、影響を及ぼさない。
という考え方なのですが、結局コントロールできるのは自分の価値観、言動、習慣。
以上!笑
簡単に言うと、そのような概念です。

その最たるものが今日までに培われた「価値観」

生きるとは、行動しながら価値観を見直していくだけの作業なんですね。

どこがどう捻れてるから、私は生きにくいのか。
どこがどうズレてるから、私は生きることが幸せ~♥といつも感じることができないのか。

外に内を合わせているうちは、全く分かりません。
迷宮に迷い込みます(∵`)

内に外を合わせていく。
「最も大切なワタシを知るために、心理の探求を続けていく」

そうやり始めたときに。
私の価値観は180度反転しました。

物事を観る方向の違い。
ただそれだけなのです。
どこから観るか。

現実は何も変わりません(^^)
でも、変わるのです。

七不思議……(∵`)ではなく。

観方が変わる→体現が変わる→現象が変わる

という簡単な仕組み。

”捉え方ひとつ”

などと、簡単な言葉で表現されますが、本当に簡単なのです。

外側に対する執着と期待という根底にあるものとサヨナラする。

離れたくないですよね。
過去から積み上げた経験。
過去から積み上げてきた物質。
過去から積み上げた人間関係。
過去から積み上げた社会的な役割を持った自分自身。
あの人がいれば、あれがあれば、きっとまた幸せになれる。
あれがあれば!という脳内麻薬です笑
お金やタバコやお酒と同じ。

だけども、ですよ。

恐らく離れたくないのは、
あのときのあの私、好きだったわー♥
あのときのあの私、素敵だったわー♥
あのときのあの私、輝いてたわー♥
あのときのあの私、凄かったわー♥
あのときのあの私、幸せだったわー♥
あのときのあの私、ワクワクしてたわー♥

という「感覚」なのです(´ω`)

それを感じている”ワタシ”が好きだったのです。

なので、期待も執着も。
外に見える人や物にするのではなく。

ワタシという人間の感覚にする。

いつもその感覚にいたいと、執着するのです。
いつもその感覚にいられるように、期待するのです。

そうしていくと。
「あぁ。今日の私、一日中幸せだったわー(´ω`)ヤバいね」
と、勝手に毎日幸せ氣分で過ごしてる。
それが365日続き、それが一生となるのです。

そこには、我慢は必要ありません。
あるのは、ワクワクした感覚だけです。
むしろ、それ以外のものは、実は「なくて良いもの」なのです。

そして、新しい経験の中には、新しい「素敵なワタシ」が詰まっています。
「こんなことに幸せ感じるの?!そーだったのー?!!」
を知っていく作業なんですね。
現象を、失敗や間違いと捉えようが、成功や正しいと捉えようが、そこにどんなジャッジをしようが、あんまり関係ないのですね。
(これが邪魔になるときはありますが…)

細かい捉え方はどうでもよくて。
「なんにせよ、心動いたわー(´ω`)」
それに尽きるのです。

大人になっても、大泣きできる。(苦しい)
大人になっても、激烈に怒る。(しめつけられる)
大人になっても、激烈に怒られる。(詰まる)
大人になっても、恥をかける。(固まる)
大人になっても、飛び上がるほど喜べる。(ふわっと軽くなる)
大人になっても、悲しみに胸が震える。(深く温かい)

そこに言葉で価値を与えているのはジブンで。
意識の中には何もないのです、実は。

じゃあ、なぜ生きているの?
肉体を持って、体験するためです。

肉体を使いきるために。
毎日感動を味わっていく。
小さなことから大きなことまで。
そして、人の器が大きくなればなるほど、感覚のスケールが大きくなります。

だから、感覚を味わうこと。
行動すること、表現すること。
どうせ何があっても、どんなジブンでも幸せ(ほんわか温かい)に落ち着くのなら。
どんどん味わっていこう。
私が生を感じる感覚をどんどん増やしてこー!
そういうことです(^^)

でも、そうじゃなくても良いのです。
落ち着き、静かに、誰とも何とも関わらずに、何もせずにいるときの静寂さ(無)
その感覚があるから、震える感覚がよくわかる。
そんな幸せ(´ω`)

この世界は二元性で成り立っているので、どちらをも十分に味わっていくことで、もう片方が光輝くのです。

こんなんじゃ幸せじゃない。
こんなのワタシじゃない。
↓↓↓
こんなワタシもいたんだー!
へぇー!これもワタシなんだー!

それは、ワタシに対して素直でなければ感じられない。
条件はただただそれだけ。

そうではない、外側を変えようとする捉え方の方を捨ててく。
それだけのこと。

幸せはいつも“ここ”にあります(´ω`)

氣づいてほしいから、いる。
氣づいてほしいから、目の前に現れている。
氣づいてほしいから、それは”在る”のです。

氣づいて、お願い(´・ω・`)

と、どんなときも、何があっても、どんなあなたでも。
あなたが観てくれるのを、いつだってただただ待っているのです。

これを書くために。
私は団子猫を発見したのかと笑

人生は用意周到。
生まれる前からジブンで用意した舞台です。
及ばないところで、着々と準備は育まれています。
行く末も。
ゴール設定は成されています。
辿り着きたい自身があります。
周りの現象ではない。 
どう生ききったか。 
目の前に現れた物事や人に対して、その瞬間の自身を体現しきれたか。
常に自身に真摯であったか。
どの瞬間も自身に誠実な偽りのない体現をした人生であったか。
大きく見せることも、小さく見せることもしない自身であったか。
ただただ素直であったか。

そこに尽きる。

人は常に、道半ばなのです。
どれだけチャレンジできるか。
肉体を捨て、魂なのか素粒子なのかそのような存在に還ることは、死をもってしか経験できないことなので。

生きているうちは、体験するに尽きます。

だから。
ゆるりと行きましょ(生きましょ)~(´ω`)


今日はなぜか、これは書こうかな…と感じたので、書いておきます。

自分への宣言も含まれてるかもしれない(*・ω・)

コロナのワクチンと補償金について。
私の思うところを綴ってみました。

以下、ご興味のある方はどうぞ。
↓↓↓↓

世界各国、日本各県の情報はどうあれ。

国が
”ワクチンを打って亡くなったら、お金を払う仕組みを早くから創っている”
ということは、エビデンスの明確さに欠けているということだと考えています。
とかく、コロナウイルスとは…まだ明らかにされていないのです。(生きてる間に明らかになるかな…笑)

命を博打にかけることよりも、一進一退しながらでも、自分の足で歩んでいくことに私は価値を感じています。

選ぶのは一人一人。
4000万でも、貰えるならそれでいい。
と、思う人もいるし、私自身もそれ以上の価値が今の自分にあるのかと言われると、NOです。
ただ、未来の自分はどうなのか。
月収30万でも、約10年で稼げる額です。
月収50万なら、約6年。
月収100万なら、約3年。

たったこれだけで稼げる額をひとつのワクチンにかける必要があるのか。
3年生きるのなんて、あっという間です。
では、その先の人生は?
知らなかった人との出会いや知らなかった世界との出会い、たくさんの感動に出会えるかもしれない。

”それを感じることをもう自分には許さない”

と宣言することと同義だと私は思います。

少なからず、
”生きることを諦める選択のひとつ”
そういう意味が含まれているかなぁ…と。

「でも、自分の命は4000万という博打にかけるだけの価値がある」
「4000万を生み出す窓口のひとつ」

そういう考え方や他の考え方もあるかもしれない。
きっと聞いたら、そうなんだぁ(・ω・)と思います。

ただ、今は。
誰が作ったのかもわからないものにかけるなら、自分の心身に対して健全に賭けたいなと。
博打をうつなら、自分の可能性に。

そっちの博打を打ちたい。

何かと動きにくくなるように、制限をかけられていますが、今はただ歩いていくことに何よりも重きを置いています。
悩み、迷い、ときには苦しみに身を委ねながらも、ただただ生きること。
ただただ歩くこと。
歩みを止めないこと。
流れを止めないこと。

今は、母として、1人の女性として、娘として、妹として、社会で生きるものとして。
そして、生きている人間として。
私には何ができるのか。
いつ、どこで、誰に、何をして、どんな風に喜ばせたいのか。
そして、それはなぜなのか。

そんなことを、フワッと思っています。

そして、それにすらも囚われず。

そういう、よく分からないただの流れに身を任せることではない、
自分の人生の流れに沿って、ただ歩いていくことに重きを置いています。

コロナワクチンひとつが、だいぶ膨らんだ…(´-ω-`)

縁あって読んでくれた人の、

「そうなんだー(・ω・)」

に繋がったらいいなぁー(*・ω・)

写真の中心に赤ちゃんバッタがいるのですが、見えますかね?笑


夏には大きな羽音を立てて遠くまで飛んでいくのに、春はまだこんなに小さいんだなぁ~って。


一生懸命飛んでるバッタを見て、ただ生きることの意味を垣間見た氣がします。


人は余計なものを持ちすぎていますね。

特にココ最近は感じます。


人の習性(ホメオスタシス)は恐ろしいもので、今まで守ってきた殻は破るのに時間がかかる…


ひとつ勉強になりました。


でも、過去の私はちゃーんと自分を出せるように下地を創ってくれてるから、


優しい♡


と(*´∀`)


今日からまたボチボチと。


やりたいときに書いていきます(*・ω・)


今日は書きたいことあるので、もう一個書く予定です♪