和語の発祥は天の道 | カタカムナの共鳴

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

直観とは何か

 

 直観は本能から派生した概念である。孵化したヒナ鳥は最初に見たものを「オヤ」とし、親についてゆきながら、雨風のしのぎ方、エサの取り方、見分け方、飛び方、敵から身を守るチヱを得る。ヒナ鳥は親鳥に面倒をみてもらひ、初めて一人前の鳥の本能を得る。このように本能は親から鍛えられて上達する。

 

 人の本能は過去に蓄積された経験知を元にしている。経験知を元に状況から行動までの刹那的な判断がパッと閃く。このような判断知(カン)は個体と外界との接点で働く「感受性」よりも多くの意味を察知する。

 

 何かを感じた時の「ムシの知らせ」とか「どうもあの人はムシが好かない」といふ「ムシ」は「アマナ-カムナ」のカカハリとして把握した。ムシではなく鳥の知らせでも良さそうなものだが「ムシ」といふ音感にふさわしい何か深いものがあると感じたのだろう。「ムシ」は「カムのシメシ」に通じ、「風の便り」より速く、ひそかに響く。

 

 ムシの知らせを受け取れるだけのカンを鍛え、教育に取り入れるのは、動物としての正しい在り方である。(現代人はロボットとかゾンビのようなもので、とても生き物としての感覚を持っているとは思えない。コロナ禍を見ても、無症状感染という言葉が流行ったことを見ても、生物としての勘の狂う度合いは常軌を逸している)

 

 内外の刺激はこれまでに蓄積された経験を元に触発される。氣持ちよい あぶない! 嫌な奴だ 一目惚れ といふものは考えて出るものではない。このような感情は動物全般に通じる。どんな意識レベルかによって左右されるものではなく、人間だけが特別優れているわけでもない。言い換えれば、意識に昇る前の段階でなされる判断なのである。

 

 すべての生き物は無意識レベルで刻々となされる判断知(カン)の支配下にあって生命活動を営んでいる。脳の働きも判断知の支配下にあって活動を続けているのは言うまでもない。

 

 判断知は動物本来が備える本能として反射的に働く。鍛錬を積むことで鍛えることも出来る。化学分析にも乗らない微妙な違いを嗅ぎ分ける。水の味、声の質、脈拍の変化を機敏に感じ取る。人の機微を細やかに感じ取る。そして既存の素材の上に新しい閃きを啓発する。判断知に相当する「カン」といふ和語には以上のニュアンスが込められているのだ。

 

 カタカムナでは「カン」の本性を「似たものでより分ける能力」としている。分け方を鍛えること。それによって諸々の事象に内在する型を定めていく。型には派生して出来た型と派生する前の型がある。派生する前の型を感じ取れるようになると「カン」度が良くなる。なぜなら、派生する前の型を知っていれば、それがどのような変化を遂げるのか? といふ疑問を抱かずとも、変化が起きる前にどう変わっていくのかが分かってしまう。(数学用語で「微分」という。僅かな変化を事前に察知し、事後を予測することである)

 

 先人たちは「カン」を鍛えるための道具としてヤタノカガミ、マガタマ、ツルギを残した。和語の成り立ちはヤタノカガミの図象にまで遡ることができる。これまでの学校の歴史では習ってこなかった紀元後の数百年間の和の国の歴史は謎に包まれていた。この頃、中国文明が流入し、漢語で文字を書く習慣が徐々に浸透していった。その前はどうなっていたのか? 見慣れぬ漢語を音読みと訓読みで読み分ける方法は? 苦し紛れに書いた万葉仮名の元になったものは? その答えは カタカムナ にある。

 

 和語に習熟することは動物としての「カン」を養うことに通じている。和語を間違いなく話すには「カン」が良くなければ不可能なのである。「カン(カム)」という発想を持たぬ中国人の作った漢語を和語に用ゐようと思うなら「カン」から出発し、自分たちのカン(観)じるなりに改変しなければならない。子どもが持つスナホな「カン」を損傷させてはならない。子どものような臨機応変の「カン」をもっと鍛えてゆこうといふ勉強方法を社会常識にしていれば、これほど狂うことは無かったのだ。「カン」とは「カム」をサトル性能である。「カン」の正体はアマナ-カムナのカカハリにある。

 

 「カン」はあらゆるものの本性に感応する。そして、あらゆるものの元となる型に似てくるといふ性質がある。すべての生き物が持ちカンじてゐる。カンじること無しには生きられぬ。まさに生きるための本能。生きていくためのチカラ。異質なものとオノレを真吊り合わせるためのチカラ。無意識にバランスをとる。

 

 そのため和人は和語の発祥となる「カン」の解釈を漢字の「思」の発想に留めてはおかない。「田」は大脳の働きであるし、大脳から「心」が生まれるといふ発想から作られた漢字だから。 < 思の成り立ち(リンク有り)> 「カン」は「カム」であり「考」の字に宛てた「カムカヘル」にまで起源を遡るべきである。人のオモヒは「カム」に帰り「カム」からふたたび(二度)孵るのが天の道。