痛みは比べることが出来ない
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人が感じる痛みは比べることが出来ません
体も、心も。
痛覚というのは基本的にはすべての人に生まれつき備わっている物ですが、時に生まれつき痛覚を持たない者、または遺伝的に痛覚が極度に鈍い者や、逆にとても敏感に感じる者も居て、それは人と比べることが不可能です。
とても痛がる人や子どもを見て
『おおげさね』 と思うかも知れないし
あまり居たがらない人を見て
『我慢強いのね~!』 と思うかも知れない。
でもそれは『痛そう』 という予想に過ぎず本当にどれくらい痛いのかはわかりません。
ただ、痛みは
そこに傷があることをおしえてくれて
そこを守る必要があることを教えてくれて
それ以上踏み込んだら、もっと痛くなったり危険がある、ということを教えてくれます。
私は自分の『痛み』 への認識が少し人と違って居るであろう事を自覚しています。
言葉ではうまく表現が出来ませんが
痛みが神経を伝わって脳に到達するそれを分析して認識している、という感じです。
痛みを感じているけれど、好きでは無いけれど、ちょっとずれてる。
なので、幼児の頃は、『注射が好き』 だったりしました。
でも 『痛いのが好き』 ではない
お産の時も、子宮のどこがいたくて、どんな風に痛くて、というのを感覚では無く脳で感じていました。
さてこの認識の感覚を誰かと共有できるだろうか、と思ったらきっと無理だと思います。
無理で良いのです。
逆に、誰の痛みも予想しかできないのはすべての人が当然のことです。
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前置きが長くなりました。
体の痛みも心の痛みも
人それぞれ違うわけですが
大きな痛みも
小さな痛みも
同じ痛みですし
大きな傷も、小さな傷も、同じ傷です。
治療を必要とします。
時に、自分よりも大きな痛みや傷、経験を抱える人を前にして
「自分のはたいしたことがないから」
とか
「あの人の人生に比べたらわたしのなんて」
とか
「自分は恵まれてきたからたいしたことない」
とか
言ってもいいんですけど
言ったところで自分の痛みも傷も無くなったりはしません。
他の人が大けがしてるからって
自分のすりきずが無くなったりはしないんです。
大けがの人も
軽傷の人も
どちらも等しく、痛みが無くなった方が良いに決まってます。
軽傷の人は我慢しろなんてことありません。
『親だって苦労したから』って、自分の苦労を無かったことにする事も無いんですよ。親も大変だったかも知れないけれどそこで育った自分も苦労した、と認めてあげても良い。
大変だったであろう親に甘えられなかった経験があるならば、甘えたかった自分をケアしてあげる必要がある。
自分のケアが必要だと認めても、親を否定することにはなりません。
大きくても小さくても
痛みを感じる人は治って楽になって良いのですよ。